【特集:SFC創設30年】
座談会:グローバル社会を牽引するSFCへ
2020/10/08
アメリカで大統領選を取材
土屋 次にそれぞれの海外体験などを聞いてみたいのですが、私が研究者として最初にアメリカで暮らした時は、アメリカを分かっていた気がしたけれど全然分かっていなくて、大変な思いをしました。ちょうど9・11に遭って人生が変わってしまったみたいなところがあるのですが、吉浦さんはアメリカはどうでしたか。
吉浦 私は2013年のワシントン赴任がアメリカに住む初めての機会でした。やはり住んでみて初めて見えてくるもの、知ることが確かにありました。端的に言うと多民族で多様な価値観を持った人が集まっている国で、もともとある程度分断されている国なのだということを感じました。その分断されている状況を4年に1回の大統領選で統合する試みが従来のアメリカの大統領選だったように思います。
土屋 分断を統合しようという大統領選が2016年に限っては違う方向に行ってしまったわけですよね。間近に見ていていかがでしたか。
吉浦 2016年の大統領選で最後にトランプが勝った時には日本に帰ってきていたのですが、赴任当時は共和党の予備選などを取材しました。集会などの場でトランプが破天荒な発言をすると、会場は爆笑や失笑に包まれる。記者仲間に聞くと、パブで酒を飲んでいる男たちが、テレビでトランプがしゃべっているシーンを、バーカウンターをバンバンたたきながら大受けして見ていたと話していました。
つまり、多くの人が本音では思っているけれども口にしてはいけない、国を統治する者に求められるセレブリティとしての作法やモラルみたいなものを打ち破って本音を言っているところが、一部の人たちに「正直な男だ」と肯定的に受け入れられたのでしょう。
ただ、私は大統領選でトランプが勝つところまでは行かないと思っていたので、あの大統領選の結果は予想外でした。
土屋 共同通信の特派員という形でワシントンで暮らすことは思い描いていた通りだったんですか。
吉浦 日本と時間が真逆なので、新聞の作業時間で言うとワシントンの朝は、日本の新聞の朝刊締め切りを意識して仕事をする。そして、日中は向こうの夜からが日本の朝刊の作業になります。それを意識しながら、夕方から夜にかけて半日先の日本の状況を想像し、朝刊用の原稿を書いていました。
それが上手く行かないと夜中から深夜、未明にかけて仕事をする状況になるので、最初は睡眠時間をどうやって確保するかがとても大きな課題だったのですが、だんだん体も頭も慣れてきました。そこは工夫で上手く乗り切れたような気はします。
振り返ると、ワシントンでの仕事は何をやっても興味深くて没頭してしまい、そのため食事に行く時間もあまりなく、実際に日本にいた時よりもカップラーメンを食べる機会が格段に増えてしまいました。
アメリカ野球を体験後に研究者に
土屋 一方、加藤さんは全然違うアメリカを見ていたような気がするのですが。
加藤 アメリカと言っても、スプリングトレーニングのためアリゾナとフロリダに結構長い期間いました。リーグはニューヨーク・ペンリーグというニューヨーク州とペンシルベニア州の地域にまたがったところでした。
土屋 そもそも英語はできたんですか。
加藤 正直、大したことないです(笑)。最初にアメリカに行ったのは、大学3年時の野球部のアメリカ遠征で、その時にSFCの先輩が「SFCの英語をやっていたら大丈夫だよ」と言っていたんですね。本当かなと思ったんですが、SFCの英語の授業は日本語を一切しゃべれないじゃないですか。だから、何でもいいからとにかく英語でしゃべらなければいけないということが癖になっていた。なので、SFCの学生は結構適応できていたと思います。
SFCが創設された時に、鈴木孝夫先生がEnglish ではなく、「イングリック(Englic)」だとおっしゃっていたそうで、とにかくしゃべれればいいという英語が大事だ、ということを身をもって体感しました。
そのアメリカ遠征で行ったのが、アリゾナのメサというフェニックスのちょっと下にあるところなのですが、そこはシカゴ・カブスのマイナーリーグの本拠地だったんですね。もう2度と行かないと思っていたら、奇跡的に同じ場所に行くことになったんです。
マイナーリーグの生活ですが、先ほど吉浦さんからカップラーメンばかりという話がありましたが、私たちのチームはスポンサーがサブウェイで、食べ放題だったので、ほぼ毎日サブウェイでした。マイナーリーガーの最初の給料は月800ドルなのでお金は使いたくないし、毎日試合なので実際に外に行く時間もなくて、本当にサブウェイばかりで、もう人生でサブウェイはいいかなと(笑)。
土屋 では、今、キャンパスでもサブウェイには行かないんですか。
加藤 そうなんです。でも日本のはおいしいです(笑)。野球は1シーズン解雇されることなくやれたのですが、次の年のスプリングトレーニングの時に体制がガラッと変わってしまった。今シーズンもプレーできるかなと思っていたのですが、忘れもしない3月31日、翌日からシーズンに入る前日に解雇されました。
昔の「メジャーリーグ」という映画では、ロッカーを開けると、そこに「解雇」と赤紙が貼ってあるんです。私の時も本当にポストイットが貼ってあって、「ああ、これなんだ」と逆に感動したんですけれども(笑)。当時は23、4だったんですが、その年齢だとメジャー近くまで行っていないと切られてしまうんですね。
土屋 加藤さんは野球でボールが止まって見えるのはなぜか、という研究をされていましたよね。アメリカでの経験がそちらにつながったのですか。
加藤 そうですね。本当はプログラミングとデータ分析の研究で大学院に入ったのですが、自分が野球をやってきた中で出遭った不思議な体験を追究したくなったんです。
いわゆる「ゾーン」に入ることなどにすごく興味があり、当時SFCで視覚の研究をされていた福田忠彦先生から、「君がやっていることは学術的に見たらすごいことだよ」とおっしゃっていただき、そこで初めて自分がやってきたことが学術的なテーマになると気づいたんですね。
福田先生が「文武両道と言うけれど、文武は両道ではなくて、突き詰めていけば実際は1つなんだ」とおっしゃった。その言葉で今の自分がいると思っています。
コーカサス地域研究の道へ
土屋 廣瀬さんは学部が終わって研究者の道に入っていかれるわけですよね。ロシア、モスクワではなくコーカサス地域の研究をやろうとしたきっかけは何だったのでしょうか。
廣瀬 実は、最初はSFCの修士を終えてから国際公務員になろうと思っていました。ところが、先生方が皆、国際公務員になっても戦地やアフリカの僻地ばかりに飛ばされて、結婚しても続かない。特に女性は子供も欲しいだろうし、生活に緩急が付けられる研究者がいいよ、と言われたんですね。
他方で、当時、私は2期生でしたのでSFCに大学院はできていたのですが、まだ博士課程ができていなかったこともあり、東京大学大学院の法学政治学研究科の研究者養成コースを受験しましたら、幸い合格しました。
大学院入学時は国際政治を広くやろうと思っていたのですが、国際政治はなかなか摑みどころがないので、研究対象地域をガチッと決めて、そこを視座にしたほうがいいのではと感じました。それで最初に自分が心を惹かれた旧ソ連地域でいこうと思ったのですが、ロシアの専門家はそれなりにいたので、誰もやっていない地域に注目したいと思ったことが第1の理由です。
また、第2の理由として、旧ソ連の民族紛争を研究したいと思ったのですが、数ある民族紛争の中でも1つだけ異質に見えた紛争があったのです。それがアゼルバイジャンとアルメニアの間で行われていたナゴルノ・カラバフ紛争でした。他の旧ソ連の紛争はすべて内戦だったのですが、ナゴルノ・カラバフだけはアゼルバイジャンとアルメニアの国家間の「戦争」でした。
アルメニア人は世界中にディアスポラとして散らばっていて、英語やフランス語でガンガン自分たちの立場を発信している。だからパッと見るとアルメニアに有利な情報ばかりが目に入るんですね。しかし、実際に紛争の本質を見るとロシアがアルメニアを支援していたので、アルメニア側が有利で、アゼルバイジャンの領土の20%を占領していた。それにもかかわらず、アメリカもアルメニア・ロビーの影響でアゼルバイジャンに対して人道援助を除く経済制裁をしていたんです。
それはあまりにも不公平なのではないかと思い、アゼルバイジャン側からも研究しないと本質は摑めないのではないかと思ったんです。そこで、現地で研鑽し、中立的な立場で研究をしたいと思いました。
国連大学の秋野記念フェローシップの第1期生に選んでいただき、アゼルバイジャンで1年強研究する機会を得ました。そこからアゼルバイジャンを中心としたコーカサスの研究、ひいては旧ソ連地域研究をやってまいりました。
土屋 学部では外国語は何を勉強されたんですか。
廣瀬 インテンシブは英語を取りました。ロシア語はベーシックしかなかったんです。これは教員になってからもよろしくないなと思っています。今のSFCには、スラブ系の言語が1つもありません。
ロシア語は国連の公用語でもあるのであってもいいと思うんです。ロシア語はSFCでは足りなかったので、慶應義塾外国語学校やニコライ学院に通って独自に勉強しました。
土屋 アゼルバイジャンの生活はどんな感じでしたか。
廣瀬 当時はとにかく日本人がいなかったので、道を歩いていたり地下鉄に乗ったりすると体に穴があくのではないかというぐらいジーッと見つめられました。それがすごく嫌でしたね。また、日本人と見れば金持ちだと思うみたいで賄賂の要求がすごい。
特にジョージアに国境を超えて調査に行こうとする時が一番ひどくて、国境警備隊が十人ぐらい並んで全員銃口を向けてきたりしました。荷物も全部漁って、見つけたお金はすべて持っていかれました。テロリスト扱いもされましたし、難民キャンプで難民の方と一緒に泥水を飲む生活もしましたし、本当にいろいろな経験をしました。
首都・バクーの中心部に住んでいたのですが、朝起きるとまず水をためるんです。水が朝と夜遅くしか出ない。しかも、水がピンク色で洗濯をすると、白いTシャツがピンク色になる程すごい色でした。停電も頻繁に起きたので、蝋燭生活にも慣れました。
アゼルバイジャンでの生活で自分はどこででも生きていける自信ができましたね。
2020年10月号
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