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【特集:SFC創設30年】
はじまりの終わり、終わりのはじまり

2020/10/05

第2創業としての「はじまり」

2つ目の解釈は、微分値を短くとることで見えてくる。これから30年かけてゆっくりと終わっていくという解釈ではなく、過去30年の流れはロケットと一緒で急に止めることはできないので、あと数年かけてそれを終わりにして、新しいことを始める。そのための撤収作業が始まったという解釈だ。SFCの第2創業である。

環境情報学部の場合、これまではテクノロジー、サイエンス、デザインをカバーしてきたが、アートはぽっかりと抜け落ちていた(才能あふれるアーティストが教鞭をとる時期も一時はあったが、皆他大学に移動していった)。ここで議論したいアートとはもちろん広義のアートのことであり、単なる作品そのものを超えて、その思想や態度、研究者個人の洞察力や特異性といったものを重視した社会へのアプローチを意味する。

ヨーゼフ・ボイスは社会彫刻という概念を生み出したが、彼のいう芸術家とは、自ら考え、自ら決定し、自ら行動する人々のことであった。ボイスは芸術概念を拡張しようとした。社会と関わる全ての活動を社会彫刻と呼んだのだ。誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるという視点は希望に満ちている。社会彫刻集団としてSFCを捉え直すことはどこまで可能であろうか。

この考え方は決して突飛なものではなく、過去30年のSFCの在り方を引継ぎ、さらに発展させるものでもある。これまでのSFCは「問題発見、問題解決」を重視していたが、どちらかというとテクノロジー、デザイン、ポリシーといったものをツールとしてソリューションを提供することに重きが置かれていたように思う。問題解決を重視してきたのだ。その中で、問題発見はちょっとした気づきという位置づけに過ぎず、その意味や可能性が深く追求されてきたとは言い難い。

「問題発見」に向き合う

これからのSFCはアートでいくというシナリオは、閑却されてきた「問題発見」と丁寧に向き合うことでもある。個人の特異性から世界を眺めるとき、そこにはユニークな視野が生まれる。そのユニークさをプロジェクト化して社会に投げ込むとき、そこに新しい可能性が生まれる。それは成熟した今のSFCにもっとも必要なものかもしれない。

先の見えない社会にあって、アーティスト的な思考を用いてあらたな方向性を指し示す人、国家が決めた未来ではなく自ら主体的に未来を作り出せる人、そのような人材を育成する場所としてSFCは適しているように感じる。ボイス的な意味で社会をシェイプする芸術家集団として、SFCを捉え直していくと、いろいろと可能性が生まれるだろう。

ブラック・マウンテン・カレッジという学校が1933年から25年間だけアメリカのノースカロライナに存在した。ジョン・デューイの理論を下敷きとして、バックミンスター・フラーやジョン・ケージらが実験的な芸術教育を行ったことで知られている。フラーの最初のジオデシックドームはここで作られたものだし、ケージの最初のハプニング・パフォーマンスもここで開催された。異なる領域を積極的に認めあい、分野横断を推奨する文化、ホリスティックなリベラルアーツ教育、教育と実験的活動の両立など、SFCと類似する点も多い。1957年に資金難により惜しまれながら閉校するが、伝説として今でも語り継がれている。

あと5年で「これまで」の状態を撤収し、残りの25年をブラック・マウンテン・カレッジのように実験的に生きるのも悪くない気がする。福澤先生は「一身にして二生を経る」と仰ったが、大学にもそのような在り方があってよいのではなかろうか。

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