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【特集:新・読書論】
座談会:AI時代に古典を読む

2020/05/11

文学の地平の広がり

キャンベル もう1つ、いわゆる文系と理系というのは、明治10年代以前には存在しない二分法なんですね。なので文理融合型の学びにつながる素材を持ち掛けて、研究者たちだけではなくて、市民が知見を共有できるようにすべきだと思っています。

例えば国文研が入っている施設の隣りにある国立極地研究所という南極越冬隊を派遣したりする非常に重要な理系の施設と、数年前から「オーロラ」の共同研究をしています。

藤原定家の『明月記』の中に、京都の自邸から北の山が赤く燃えるようなまがまがしい「赤気(せっき)」が見えるとある。これは何百年もの間ずっと、これは何だったのかと議論されていました。3年ほど前に、極地研と私たちの共同研究によって、実はこれはオーロラであったとわかったんですね。13世紀には低緯度のオーロラが京都辺りを南限として実は見ることができた。『日本書紀』の620年の記述の中にも、同じ「赤気」という記述があり、これも未解決でしたが、オーロラだったということが、様々な地質学的な、あるいは天文学的な知見と合わさることで分かったんですね。

料理を楽しんだり夜の星空を見て夢を抱くということは、古今東西、変わらない、1つの人間の持つ非常に普遍的な好奇心であり、面白さであると思います。そういったことを、今日、古典と呼んでいるものにどうやって結び付け、開いていくか。これが、これから求められることかなと思います。

 『源氏』とか『枕草子』といったメジャーな文学のほかに、例えば中世でも、いわゆる地下人(じげにん)と呼ばれるような、お公家さんとは違う、お坊さんや武士、庶民が集まって、いろいろと連歌をやったり何かするという文学の流れが1つあったわけです。

私も1つお見せしましょう。これは、『いなのめ集』という俳書です。田川鳳朗(ほうろう)の弟子の良台(りょうだい)という俳人が作った、いわば自費出版の本で、大体天保前後のものだと思います。これは、最初は良台の関わった連句が出ているのですが、後半は聞いたこともない俳名の句がずっと並んでいます。これは上総、下総、安房、常陸あたりの良台の素人のお弟子たちの句なんです。つまり、今で言う俳句の結社の自費出版の本みたいなものです。

キャンベル ライングループのようなものですよね。必ずしも一堂に集まっているわけではないかもしれない。

 そうですね。おそらく、一句、俳句をここへ載せるのにはいくらという出句料というお金を取るんです。これを読むと良台の句はつまらないのだけど、素人の人たちが読んだ句の中には、本当に自分たちの生活に密着した季節観だとか、労働観だとかいうのが出ていて面白いんですね。

広い意味での文学の地平ということで言うと、何も紫式部や清少納言が偉いだけなのではなく、そういう突出した天才的な人が出てくるためには、その地層に、日本人がずっと昔から持っていた文学意識みたいなものを支えていた民謡だとか、伝承だとか、神話伝説だとか、様々な文学の萌芽みたいなものが、それこそキャンベルさんがおっしゃったように、そこからだんだん麹が発酵していい味のものが出てくるようになったのでしょう。時々、大吟醸もできると(笑)。

古典の見せ方

小平 お二方とも書物の実物へのこだわりは強いと思うのですが、デジタル化など、一見、相反するような技術を積極的に生かしていらっしゃることがよく分かりました。私も、近代で素人投稿者の書いた文章を発掘して研究していますので、続いていることを面白く伺いました。

先ほどの触媒の話がありましたが、駒井さんは様々な言語で書かれた文学について、翻訳者の解釈を生かして、驚くような翻訳も世に出されてきたと思います。例えば川村湊さん訳の関西弁の『歎異抄』です。また、よく知られている『虫めづる姫君』も、蜂飼耳さんがタイトルから「あたしは虫が好き」として、読者にこういう読み方があったのかと気付かせる。

また本の形については、古典新訳文庫は装幀も面白くて手元に置きたいと思いますが、一方で電子書籍で読むと、お二人がお話しになったように、幅が広がるということもあると思います。

駒井 古典新訳文庫は実は最初から電子書籍化を急いでやってきたんですね。というのは、電子本だとクリックすれば注に飛びますよね。そういうことも大きいんです。

それから図を多用することで、一般の読者にとってすごく読みやすくできる。例えば『梁塵秘抄』は11~12世紀に京都で流行した今様を集めた歌謡集ですが、ここで歌われるさまざまな職業人や、これらを歌う芸能者たちの姿・服装が、絵巻や職人歌合(うたあわせ)の図柄を引くことで、一瞬で説明できます。また『方丈記』が書かれた時代に多発した飢饉や大火、竜巻など自然災害の発生地点を示せることも、図を用いることで得られる効用でしょう。

そういった知見を本に入れていくことも、とても重要だと思っています。それから、古典は色がなかなか分からない。ですから『とはずがたり』には、本に出てくる日本の伝統色を電子書籍でもカラー刷りで入れています。これは今までほとんどなされたことがないと思います。つまり柑子(こうじ)色というのはどういう色だと実際にわかるのです。

また、これは外国文学ですが、例えば18世紀のヨーロッパの女性の服装などは、以前は日本の翻訳家がいくら図書館で調べてもなかなか分からなかったのものが、瞬時にインターネットでわかってしまう。これがどれだけ大きく文学の受容を変えたかというのは想像以上のものがあると思います。

さらには、例えばコンゴ河をさかのぼる、コンラッドの『闇の奥』という小説がありますが、今はさかのぼっていく画像が全部見られるそうです。そういう意味で、日本の古典の翻訳などにもそういう要素がこれからどんどん取り入れられていくと思います。

それから林さんがおっしゃったように、今、オーディオブックが本当に普及しています。本来は耳で聞いていたものを、われわれは黙読の習慣を付けてしまった。そういうことをきちんと本来の形で楽しめるようになっていく可能性は、AI時代を迎えれば、さらに大きく広がっていくのではないかと思っています。

古典を「なぞる」

 先ほどキャンベルさんが、僕が東大で講義したとおっしゃいましたが、あの時に「和歌を黙読してはいけない」という話をしたと思うんですよね。

つまり1つの歌を、「心あてに折らばや折らん初霜の置きまどはせる白菊の花」と、10秒ぐらいで読んではいけない。「心あてに~」と30秒ぐらいかけて「歌って」いかなくてはいけないんです。そうやって長い時間、1つの思いなり情景なりを頭の中に思い浮かべ反芻しながらその次の節に行くからこそ、掛詞だとか枕詞だとか、あるいは序詞だとかいう修辞が非常に生き生きとしてくるわけですよね。そのように「歌う」ことによってわれわれは味わってきたものがあるんです。

ところがそれをパッと目で読んでしまうと、そういった味わいが全部スポッと抜けてしまうわけです。つまり、例えば風景なら風景、色彩なら色彩、「かなし」なら「かなし」、「楽し」なら「楽し」というセンチメントを味わいながら次の言葉を待っていたということが抜けてしまって結論が見えてしまう。こんな読み方だったら和歌の面白さが分かるわけはない。だから正岡子規が『歌よみに与ふる書』で、散々、『古今集』のことをこき下ろしていますが、あれは正岡子規が読み方を分からなかっただけなんです。

つまり、言われたように、僕らは読むというと黙読を考えるけど、例えば二葉亭四迷の小説でも、目で読むとあまり面白くないけど、自分で音読をしてみると、なるほどと思う。冒頭は硬いが、途中からだんだん調子が圓朝がかってくるところが分かるんですね。

夏目漱石なんかでも目で読んでいるととても分かりにくいところがありますが、あれもゆっくりと大きな声で朗読しながら読んでいくと、何の問題もなく頭にスッと入ってくる。そういうことがやはり読み方として提示されるべきだと思っていますね。

キャンベル この話は、先ほどの「麹菌」と通底するところがあります。つまり、常に古典に目を向けて生きてはいない大方の人が、古典から面白さを引き出すための触媒の1つに音読もあるということでしょう。林さんの講義を僕は鮮明に覚えていますが、これは、つまり「遅読のすすめ」ということでしたね。林さんはパフォーマーでもいらっしゃるので、古典を体感して自分の体で「なぞって」いかれた。

この「なぞる」ということは、もう1つのキーワードになるかもしれません。声でなぞる、つまり音読をすることです。1885年に上野図書館ができて、「音を出すな」と貼り紙が出され、音読ができなくなっていく。これは、ちょうど日本の近代化と時代的に並行していく現象です。声に出してそれを読み上げていくということが失われていきました。

国文学研究資料館で、3年ぐらい前から「ないじぇる芸術共創ラボ」という芸術を共に創る面白い実験室を作ったんです。5人のアーティストを招聘したのですが、その中で、山村浩二さんという日本を代表する短編アニメーション作家が、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)という浮世絵師を発見しました。鍬形蕙斎は、葛飾北斎と同時代に双璧と言われていましたが、現代ではほとんど顧みられることがない浮世絵師です。

山村さんは資料館に来て、『鳥獣略画式』や『人物略画式』という江戸時代の中で非常によく読まれていた絵本に取りつかれ、まさに林さんと同じように、1つ1つ、この蕙斎という人の描線を「なぞった」わけです。そうしてアニメーション作品の「ゆめみのえ」という短編アニメーション作品を作り上げました。

この「ゆめみのえ」というものは、中身は全く新しい創作なんですね。しかし、表現そのものは、この鍬形蕙斎という人の描線や一筆書きで世界を捉えるという手法を非常に尊重して作っている。

これを二次創作であるとも、あるいは眠れる文化資源というものをベースとして、その土壌の中から現れた新たな価値を創出していると捉えることができると思います。もう1つの古典の姿と言ってよいと思います。

二葉亭四迷あたりまでは、江戸文化が骨肉の中にあったと思うのですが、それが途絶えた今、どのようにして古典につなげていくか。その手法として、私はAIを含めた電子情報、あるいは機械可読とか、様々な方法でデータを駆動させて、いろいろな分野の人とそれを共有することもできるのではないか、と思うのですね。

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