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【特集:新・読書論】
座談会:AI時代に古典を読む

2020/05/11

等身大の古典を楽しむために

小平 しかし、古典が面白いということは分かっていても、時を隔てていますし、わかるようになるまでに時間がかかり、それゆえ一般には敬遠されがちだということもあると思います。

多くは仕事などに忙しくて、古典には手が出ない。役に立つことを優先してしまいます。その点、駒井さんは週刊誌の現場という硬軟取り混ぜたお仕事の場の中で古典を読む楽しみに向き合われてきたと思います。

駒井 週刊誌の編集部で、スキャンダルなどを扱う一方で、『アンナ・カレーニナ』を読むというのはかなり特殊な生活だったとは思います(笑)。

僕も日本の古典はもう高校生の時の文法でとことんいじめられたと感じているんですね。おっしゃったように原文をちょっと読むだけで、『源氏物語』全体を現代語訳で読むことがないようなシステムの中で生きてきた。だから、非常に古文や漢文に対してコンプレックスを持っていたんです。

キャンベルさんが『Jブンガク』の中で、大学2年のときに日本文学を英語で精力的に読み始めた、とお書きになっている。日本の古典に英語で入っていったということは、僕には現代語訳も含め「翻訳」というものを考える上で重要なヒントでした。

正宗白鳥だったと思いますが、英語で源氏物語を読んだらすごく面白かったという、有名なコメントがありますよね。そういうふうに1つのクッションを置くと読めるということもある。古典教養主義という言い方がありますが、やはり教養とか読むのが大変というイメージがありすぎて、素直に作品を楽しむことができないことがあると思うのです。

橋本治さんが「春って曙よ!」という訳で『桃尻語訳 枕草子』を出した時に、「週刊宝石」の編集部ではこぞって皆読みました。そのことはすごく大きなことだったと思います。僕自身は、『源氏物語』は最初、大和和紀さんの漫画『あさきゆめみし』で全巻読んで、それから「与謝野源氏」を読んでいったんですね。そのように入り口として、学問的ではないかもしれないけど、現代的な面白さというのはあると思うわけです。

教養と捉えると、やはり日本は明治維新以来、西洋の文化を大急ぎで吸収しなければいけなかったので、等身大の作品像を楽しむというところまでなかなかいかなかった。これが僕が古典新訳文庫というものを作ろうと思った最大の動機です。

生涯、古典を何も読まないで終わるより、ハードルを低くしたところから入っていって、専門家の力をお借りしながら、たくさんの人々に読んでもらえるようにすることが、編集者として、とても大事なことだと思ったんです。

自分自身が週刊誌の現場で、俗世界の記事を作りながら『アンナ・カレーニナ』とかドストエフスキーなどの古典を読んでいると、違和感があるようで、実は古典文学もその時代の世相などを上手く取り入れてきた文学なんだということがよく分かったのです。週刊誌的な現場って実はバルザックやゾラの小説に出てくるような人間ドラマがあるわけです。ゾラの『ナナ』なんかまさに高級娼婦の世界ですから。それなのに、フランス文学は明治以降、教科書になってしまい、何かすごく偉いものだ、と思って読んでしまうところがある。それは日本の古典でもそうですよね。

林さんの『謹訳 源氏物語』を読んだ上で、原文にあたるのがよいのだと思います。キャンベルさんのように、最初に英語で読んで、今は江戸の漢詩の専門家という方はなかなかいらっしゃらないとは思いますが、そういうところにまでいける可能性は、翻訳や現代語訳の中にあると僕は確信しています。坂口安吾が、もし本当に面白いと思ったら絶対に原文にあたるようになると言っている。僕が非常に励まされた言葉です。そういう可能性を日本の読書界が失わないようにしたいということが、僕がこの「古典新訳文庫」を作ってきた1つの大きなモチベーションでした。

『源氏』はなぜ面白いか

 非常に示唆的なお話だったと思います。『源氏物語』について言うと、本居宣長が『玉の小櫛』という概説書を書いていますね。

どうして『源氏物語』が面白いかというと、中国の漢籍の中に描かれている人間のように、善なら善、悪なら悪という1つの方向につきっきりになるような人間は1人もいやしないじゃないかと。そうじゃなくて、人間というのは善い時もあれば、悪い時もある。正直でもあれば卑怯でもある。好きな人の前に出ると非常にだらしなく、女々しく、どうしようもないところもある。そういうところがありのままに描かれているので面白い、と言っているわけです。

『源氏物語』というと、「平安朝の雅(みやび)の世界ですね」と言う人がいます。それを聞くと僕は、「ああ、この人は『源氏』を読んだことがないんだな」と思うんですよ。宣長が何回読んでも面白い、退屈するということがないと言う。その意見には僕は本当に賛成で、『謹訳源氏』を書くのに何回読んだか分からないぐらい読みましたけれど、やはり読むたびに面白いんです。

昔、女子高の教え子に、アメリカで育った帰国子女の子がいました。その子は自分は日本人だというアイデンティティに対して大変問題意識を持っていて、何とかして自分が日本人である証であるような古典文学、『源氏物語』を読みたいと言う。それで、毎週彼女は僕の家へ『源氏物語』を読みに通ってきました。やがて彼女は、行き帰りの電車の中で源氏物語の原文を読むようになったんです。

最初にちょっと読み方を教えてエンカレッジしてあげる。例えば「うるはし」という形容詞は、欠点なく端然とした、何か仏像のような美しさで、逆にとっつきにくいというような、否定的な側面もあるんだよ、とか教えてあげれば、何活用の何形かなんていうことを教えるより100倍いい。

どういうふうにして作者がこの人物像を描き出したかというヒントを与えて、一緒に読んでいったら、彼女はその後1年ぐらいで、全巻、1人で読み終わったように記憶しています。

駒井 それはすごいですね。

 古典に対してコンプレックスを持たずに自分の一部分として古典文学を読むという経験を持てば、『源氏物語』だって別に怖くはないし、読んだからと言ったって、それが立派なことだとも思わない。

そういう経験を、僕は帰国子女の教え子によって教えられたのですが、それは非常にその後の自分の古典文学に対する接し方に示唆するところが多かった。それは本居宣長が言っていたことと、通底するんだと思います。それが優れた文学で、『源氏』が1000年も受け継がれてきた理由だと思うのです。そして私が『源氏』の現代語訳を書くのは、やはり今の人もなんとかして読みたいと思っているから、そういう仕事にも意味があると思うのです。

小平 林さんの『謹訳 源氏物語』は翻訳でもありながら、創作であるとも感じられまして、翻訳する語の選び方で、どこを面白く思っていらっしゃるのか、光源氏の眼を通してですが人物のどういうところをかわいいとか疎ましいと思っているのか、その行間から分かりました。

キャンベル 林さんの発言の中に、大事なことがあったと思うんです。電車の中で『源氏物語』の原文が読めるかということよりも、それが光景としてしっくりと、自分のこととして感じられるかが重要だと思うんですね。

駒井さんから古典への入口という言い方がありましたが、私は日本酒で言えば麹菌のようなもの、つまり触媒になって何かそこに入っていけるようなものをイメージするんですね。それは、現代語訳かもしれませんし、漫画化ということもあると思います。原文との間を往復しながら読み進めていく。あるいは2次作品ですね。江戸時代に、例えば『伊勢物語』だと、『仁勢物語』、あるいは『好色伊勢物語』というような、派生した2次創作が大量に作られた。『源氏物語』もそうです。そういったものを通して古典に入っていくわけです。

やはり学校の公教育の中で古典を学ぶということは、そういう遠近法が全く見えないと思うんですね。私は都立高校出身だったら、間違いなくここにいなかったでしょう(笑)。

どういうふうに触媒というものを見つけるか。これから若い人たちに向けて、私たちは古典、私は古典籍、書物そのものを、古いものも新しいものも包含された全体として、本当に世界に類例のないほど多様なエネルギーを、どうやってそこから発酵食品にできるか。そういう意味では、翻訳というのは1つの非常に重要な手立てかなと考えています。

技術を援用して古典に親しむ

 実は、僕は『謹訳 源氏物語』を全巻、朗読して、音声メディアとしても発売していて、源氏関係の講演を頼まれる時にも必ず朗読をするんです。その時に原文を印刷して聴衆に配っておいて、聴衆の方には原文を見ながら私の謹訳を耳で聞いてもらう。お聞きになった方は、ああ、なるほどこういう意味かと原文を理解できるわけです。

今日は「AI時代の古典」というタイトルが付いておりますから、そういうことにも少し引っ掛けて話しますと、今は電子媒体、あるいはAIのような機能を援用することによって、昔はとてもできなかった、若い人たちの古典へのアプローチができるのではないかと期待しているんです。

つまり、電子書籍を読んでいくと、いちいち辞書を引かなくても、クリックすればすぐに意味が出てくる場合がある。それから、電子的な媒体の非常に大きな機能は検索できるということですね。われわれの学問は、例えば1つの解釈に辿り着くまでには、今までにこの語なら語がどういうふうに使われてきたか、あるいはどういうセンチメントを表現してきたかと夥しい用例の中から帰納してくるわけです。

それが、全く古典に親しんだことのない人でも何の苦労もなく読めるように、全部、電子注釈が付いているようなテキストが用意できる。ですから、ハードルがだいぶ低くなって、古典に親しんだことのない人でも親しみやすくなるし、研究もやりやすくなる側面があるわけです。

キャンベル 国文学研究資料館では、たくさんの研究者の協力を得て、「歴史的典籍ネットワーク事業」という10年間の大型研究計画を進めています。30万タイトルの古典籍を高精細の画像にしてメタデータとしての書誌を入れ、おっしゃったように、本文のデータが検索ができるハイパーリンクが付いていて、いろいろな解釈に入っていけるようにもなっています。

これは世界でも非常に珍しいのですが、データベースとして実物の画像をすべて見ることができるのです。日本の古典籍が、近代と決定的に違うことは、文字と絵がもう不可分に、どちらが主でどちらが従かということが分節できないようになっていることです。江戸時代の小説にしても、俳書にしても、そこにある絵と文字というものは一緒くたにある。有機的につながっているものなのですね。

ちょうど今自宅にいるので、1つお見せしますと、文化7年に江戸で刊行された『旅行用心集』という書物があります。これは19世紀初めの人たちが、どのように空間移動をしたかということをまさに体感ができるようになっている本です。

夏にはどういうヘビが危ないとかか、どうやって自分の身体を守っていくかとか、様々な旅行のための道具や地図もあります。つまり空間を移動する時間を追体験できるような書物です。これは近代の分類法の中ではおそらく文学ではなく、ハウツー本的なものだと思いますが、江戸時代の人たちにとっては、これは文学作品、読み物なんです。こういった「物」の画像も国文学研究資料館から、いつでも瞬時に見ることができます。

また、例えば日本では料理本が17世紀から大量に作られていますが、そこから、200年間、日本の食卓に上がることがなかった料理を作ることもできます。「クックパッド」という料理レシピ集の電子版に江戸料理のコーナーを作って、18世紀の『豆腐百珍』とか『卵百珍』というようなものを、現在の献立にするということもやっています。

このように私は古典籍のほうから、現代のいろいろな人たちが日常的に抱えている問いかけや課題に直接入っていくアプローチもあってもよいと思っているのです。

小平 とても興味深いですね。

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