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【特集:新・読書論】
座談会:AI時代に古典を読む

2020/05/11

古典文法から離れて

小平 とても興味深いお話を伺いました。『源氏物語』などでも教科書に載るか載らないかは、時々の評価で変わったわけで「古典」は決まったものというわけではありませんね。林さんにとってご自身の体験から『源氏物語』というのはどのようなものでしょうか。

 中学・高校の教科書というものが、僕は非常に罪深いのではないか、と思っているのです。僕は慶應の女子高で古文の教員をしていたのですが、教科書は一度も使いませんでした。どうしてかというと、例えば『源氏物語』、『平家物語』の、全体のごく僅かな一部分だけを取り出して、「さあ、どう面白いか」と言われても、本当の面白さというものはスルッと逃げていってしまうのではないかと思うんですね。

『源氏』にしても『平家』にしても、若い人にとって読むのは大変ではあるけれど、しかし全体を貫徹して読み通した時の、心の中にドカーンとくる重さというものが本当の面白さだと思うんですよ。その中のごく一部分だけを、何か文法を教えるための見本のような形でちょこちょこと読ませて、それで何か古典文学を学んだようなことにするのは違うと思うんです。

高校時代、僕は都立高校の出身なので、とにかく頭の上にまずは大学入試というものが乗っているわけですね。大学入試は、古典をどのように味わうか、なんてことはどうでもいいわけです。ただただ、この主語が何かとか、この修飾語はどこに掛かっているかとか、何段活用の何形だとか、いわゆる受験文法というようなものを一生懸命暗記することが大事なわけです。

そういった読み方ではなく、夏休みなどに何かに1つの作品をずっと読んでみると、「何だ、全然違うじゃないか」と思うわけです。退屈な文法を重箱の隅をほじくるように教えなくても、多少、分からないところがあっても、通読していくことによって、初めて文学というものは本当の面白さを見せてくれるものです。文法は基本さえつかめれば、たくさん読むことで自然にわかってくる、そういうものです。

やはり古典文学は、教科書的なあるいは受験参考書的な形で読むのではなく、その人が「面白がって」読むということが非常に大切です。

文学はやはり、教養をつけるためとか、これを読んだら少し偉くなるだろうというようなことではなく、これが面白いと思って読む、広い意味での娯楽、楽しみだと思うんですね。そういう部分を全く抜きにした現代国語や古文の教育のあり方というのは、私は非常に罪深いと思っています。

小平 なるほど、その通りですね。

 自分自身の教師としての経験では、例えば『平家物語』は全巻を通して教えることはできませんので、例えば俊寛についての一貫した物語を全体の中からピックアップして再構築し、俊寛の物語としての『平家物語』を1学期全部使って読んでいったんですね。それは生徒たちには非常に新鮮な経験ではなかったかなと思う。

その代わり、どの教科書にも出ている那須与一の扇の的の話だとかは取り上げない。『枕草子』だって「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは……」なんてところを暗記したってしょうがない。そうではなくて、自分自身で全部を読んでいって、「あ、清少納言という人は口の悪いおばさんだな」と思わず哄笑するような箇所を発見するという経験が、古典文学を若い人たちに親しみを持ってもらえる所以ではなかろうかと思います。

小平 私も慶應女子高校出身ですが、受験のために文法を覚えなくてはいけない、という圧力なしで古典を読めたのは幸いでした。先生方がお勧めになる本を注釈だけを頼りに自己流で高校から大学の初めにかけて読んだ記憶があります。

今考えると、大変、乱暴だったと思いますが、古典文法も、当時の人はただ話し聞く中で分かったのだから、自分にもいつか分かるに違いないぐらいに思っていた気がします。体験としては大きかったと思います。

 その通りです。文法というのは、でき上がってきたものの結果を後から分析してできたものなので、言語が生成されていく段階では、意識されていないわけですよね。赤ん坊がしゃべるようになる時に、文法から勉強するわけではない。

だから少なくとも母語について言えば、多少、分からないところはちょっと辞書を引くくらいにして、分からないところもざっと見当つけて読んでいるうちに自然と分かるんです。

近代以前の「楽しみ」

キャンベル 今、林さんが、一種の娯楽であると言われました。まさに江戸時代の言葉で言うと「慰み」として物語やいろいろな草紙を読むことがありました。三田村鳶魚(えんぎょ)が戦時中に書いていますが、「教化」と「笑い」の二本柱が、江戸時代の文学を見るときの一番大きな基軸だと思うんですね。

「教養」という言葉は江戸時代にはありません。ドイツ語 Bildungなどの翻訳だと思うのです。一方、楽しみという言葉はありました。しかし、苦楽という言葉があるように、楽しみというのは、「やったぜ」とか、「とても気持ちいい」ということではなくて、憂いであるとか、痛みであるということと実は地続きにあった、と私は考えているんですね。

松平定信が老中の職を退いた後に書いた随筆に、『退閑雑記』という大変優れたものがある。その中に「憂いと喜びは環(たまき)のごとくめくりものである」とある。環というのはブレスレットのようなもの、つまり球ですね。苦と楽というものは、メビウスの輪のようにつながって、はっきりと分節されるものではないんです。

今、私たちはちょうどコロナというパンデミックの最中にあるなかで、遠隔操作を使ってソーシャルディスタンスを保ちながらつながろうとしている。その中から、明日につながる楽しみや希望があるわけです。だから、何が「面白い」のかということを、少し分け入って考えてみる必要があるのではないかと思います。

だいぶ前に、私が企画した東京大学教養学部のオムニバス講義に、林さんに来ていただいたことがありました。その中で、江戸時代の文学はそれほど面白いものではないと、暴論を展開された(笑)。もちろんそれは戦略であって、その後で、江戸の文学の面白さは近代でいうところの創造性というものとは異なる面白さで読み継がれてきた。近現代の私たちが書物から求める楽しさとは少し異なるものがあるというお話をされました。

先ほど林さんがおっしゃった、小刻みに切り出した受験勉強のための古典ではなく、様々に縦横無尽な読み方ができる。そして1つの作品を読み通すことによって、次から次へと扉が開かれるような仕組みとして、数百年間の、日本の近代以前の文学があったということは指摘できるかと思います。

小平 「楽しみとして読む」ということは誰にとっても重要な動機かと思いますが、特に大人は深刻さも含めて楽しみといえる、ということですね。

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