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【特集:SFC創設30年】
SFC「創造の共同体」──30年を超えて

2020/10/05

3.SFCの理念

SFCの30年は平成の30年とほぼ重なる。この30年の間に日本社会は大きな変貌を遂げた。キャンパスの開設期に頂点を極めた日本経済は坂道を転げ落ちるように勢いを失っていった。逆に、同じ頃誕生したインターネットは、コミュニケーションの可能性を無限に広げ、今ではオンライン授業もテレワークもどこでも行われている。休憩時間になると特別教室に殺到してワークステーションを取り合い、メールを読んでいた初期の学生たちには、スマートフォンやラップトップでどこでも通信できる環境は隔世の感があろう。その特別教室の備え付けのパソコンも大半が撤去されたと聞く。また、2度の大震災や毎年大きな被害をもたらす集中豪雨で自然との共生が課題となり、ボランティア活動が広がっていった。

大学も大きな変化を遂げた。平成元年に約25%だった大学進学率は50%を超えた。キャンパス開設の翌年には大学設置基準の大綱化が発表された。表紙に「認可申請中(1990年4月開設予定)」とあるSFCのパンフレットには、「人間と環境」「情報と情報処理能力」「総合的判断」「グローバルな視座と視野」「創造性」を「新キャンパスを支える5つの柱」として重視し、「『総合政策』と『環境情報』の研究と教育を行い、実践と総合を通じての知の編成を試みます」とある。この「5つの柱」を重視する姿勢は30年後の今も変わっていない。そして、これらの理念を体現した卒業生たちが行政から教育、ITビジネスからアートまでさまざまな分野でリーダーとして活躍している。1つだけ特徴を挙げるとすれば、非営利組織を立ち上げて、社会貢献を果たしている人が多いことだろうか。大学の宝は教職員でも設備でもない。学生であり、卒業生である。

SFC 認可申請時のパンフレット

総合政策学部は、日本で初めて設置された政策系の学部とされる。当初は、総合政策学とは既存の学問の枠を超えた横断的な知の再編や合意形成を行い、総合的に政策を立案し、実行するという理解がなされていた。21世紀COEプログラム「日本・アジアにおける総合政策学先導拠点―ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通じて―」に取り組んでいた2003年度からしばらくの間は「実践知の学問」がスローガンになった。どちらも一面を捉えていると思う。世代が変わり、時代が変化すれば、総合政策学の解釈も変わるだろう。今後どのような色合いを帯びてくるのかを楽しみにしよう。

1999年に義塾の先輩の方々が基金を集めて「SFC政策研究支援機構」を設立してくださった。これによって、近未来の国内の課題に焦点を当てた政策を立案し、フィールドワークで検証し、提言することができるようになった。地域活性化や内なる国際化など、実際に行政に取り上げられた提言も多い。こうした諸先輩方のお力添えも忘れることができない。

前世紀の終わり頃は、「環境」というと公害や環境問題という受け取り方がまだ一般的だったのではなかろうか。その時代に、「生物や機械など情報処理能力をもつシステムによって認知ないしは知覚された外界の総称」(上記パンフレット)と位置づけ、あらゆる分野の基盤としての情報との間に密接な関係を見出したのが環境情報学である。環境情報学部は、ICT、空間情報、バイオテクノロジー、メディア・アート、建築等の分野で、新たな社会をデザインする人間を育て続けている。

少子化が進み、人口減少社会に転じ、世界一の高齢化社会となった日本社会では、誰にとっても健康は最も大切なキーワードである。病院や高齢者施設などの看護の現場だけではなく、医療教育、臨床研究、医療政策、健康ビジネスなど、さまざまな分野で活躍する人間を輩出している2001年設立の看護医療学部。2018年に慶應看護百年を迎えた学部の役割は今後ますます大きくなるだろう。

時代時代の課題に対処すべく、既存の学問領域を超え、知の再編成を進める。そして、自ら問題を発見し、解決する能力を持つ人を育てることを教育の基軸とする。この点は3学部とも共有している。

4.おわりに

忙しかった草創期に耳にした、気になることばが2つある。見学客にしばしば「新設学部だからできたんでしょう」と言われた。当時は肯定したくはなかった。既存学部でも、大学院であってもできるはずだと思っていた、いや、そう思いたかった。SFCももはや新設学部ではない。では、今後はどうするのか。さらに新しい実験を打ち出して、日本の高等教育の先頭を走り続けるのか。それとも、このあたりで立ち止まって、一度足許を見つめなおすのか。

もう1つは、開設披露式で故長洲一二神奈川県知事(当時)が「鵜呑みにしているわけでは」ないと留保をつけながら、引き合いに出された「ある辛口の評論家の説」である。それによれば、当時の「日本の構造不況業種」4つのうちの1つが大学だという。マーケット・メカニズムが働かないために、品質管理が甘くなるからだそうだ*1。授業評価は実施している。外部評価もお願いした。だが、品質管理は本当に大丈夫だろうか。そのあたりをもう一度問い直してもよいのではないか。

1990年の開設時から残っている専任教員はわずか6名となった。まもなく当時のことを知る者はいなくなる。時の移り変わりのなせる業ゆえ、やむを得ない。草創期のことを知っている必要があるのかないのか、その議論も分かれよう。だが、前述のパンフレットには「時代の先導者としての伝統を継承しつつ、これからの社会の要請に正面から応えるべく構想された」と記されている。社会の要請は時代とともに変わる。その時々の要請によって大学の姿もSFCの姿も変わってよいのだろう。卒業生が教職員として戻ってくるようになってから、だいぶ月日が経つ。30年目の総合政策、環境情報両学部長も卒業生である。これまで30年にわたって築き上げてきたものは確かにある。しかし、それを超えていってほしい、「創造の共同体」として。

*1 『三田評論』(1991年、通巻第930号、31ページ参照)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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