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【特集:新・読書論】
経験としての読書──環境から見る本の未来/柴野 京子

2020/05/11

近代書店の100年

そのような観点からみれば、日本における読書環境として書店の意味は大きい。

私たちになじみのある一般的な書店のスタイルは、約100年前、1920年あたりで確立された。海外の書店と比べて際立った特徴は、雑誌と書籍が同じ流通網で売られている点にあるが、そのルーツをたどっていくと、さらに明治時代にまでさかのぼることになる。

書肆「福澤屋諭吉」や本誌『三田評論』が象徴するように、日本の近代出版は、いずれも西洋に由来するジャーナリズムと学知の輸入を柱にスタートした。産業構造もそれに応じて新たに作られたが、その過程では、草紙類のような前近代的な出版活動もが包含され、制度化されている。さらにいえば、その中心に合理的な流通機構をおいたことによって、最終出口である「書店」に出版産業の特徴が集約された。

こうして近代日本の「書店」はきわめて多様な出版物と読者とを取り込む、重層構造を備えた装置になった。さらにこれらの「書店」は、国定教科書の流通拠点として全国的に追認され、明治期にはすでに社会的なインフラになりえていた。図書館行政が立ち遅れた日本では、公共図書館の整備計画が予算つきでたてられたのは1970年前後であり、実際に設置されたのは80年代になってからである。その間、およそ半世紀あまりにわたって「書店」は増殖を続け、子ども向けの折り紙の本から函入りの文学全集、学術書に至るまで、あらゆる本を網羅的に担う場所として、日本人の「読書」のありようを支えてきたのである。

デジタル空間に新たな経験を

インターネットが現れて、様相は一変した。最大の変化は、本や情報を手にするプロセスが、データベースへのアクセスに置き換えられたことである。アマゾンのようなインターネット書店は、検索エンジンと電子決済のしくみを使って、ユーザーみずからが本を取り寄せる。ここで重要なのは速さよりも主体の転換であり、そのためのリソースの提供だった。これを最初に歓迎したのは、図書館や書店を使い倒してきた愛書家たちであり、電子化された書誌は、読書活動を高度に成立させるツールと認識された。

けれどもスマートフォンが行きわたり、インターネットショッピングが当たり前になると、そうした構造は瞬く間に意識からかき消された。アマゾン・ジャパンの設立から20年を経たいま、あるのはもはや量のかたまりにすぎない。小さな画面はその都度更新されて、経験から切り離される。「注文せば良いんだ」と言った実地子の父が知る世界の広がりへの期待は、すべてを一度に手に入れることと引き換えに失われた。

だから、もし読書の未来を考えようとするなら、デジタルに覆われたこの社会空間の中での、新たな経験が必要になる。グーグル、アマゾン的なものや電子書籍への抵抗は、「棚に並んだ本を見ることで発見がある」「直接手にとることが大事」「本のページを繰る喜び」といった実感としばしば対になっているが、思えばこれらはすべて、近代の出版システムが提供してきたフレームにもとづく経験なのである。

デジタルベースで構築される図書室や本棚は、アナログの痕跡を残しながらも、新しい経験を生み出すフレームを備えていなくてはならないだろう。さまざまな場所の蔵書をつないで可視化する「まちライブラリー」や「リブライズ」のようなしくみは、データベースではない本のありかを教えてくれるし、このところ各地で盛んに行われている読書会やブックフェスティバルなど、オフラインでの催しもまた、新たな経験から読書を成立させようとする活動なのかもしれない。

人口の大半をデジタルネイティブが占めるころには、おそらく本そのものも少しずつ変わっていく。どのような経験をもって本と出会い、対話をしていくのか。それは21世紀に生きる田家実地子と私たち自らが創りだし、次代に残すべき命題なのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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