【特集:新・読書論】
「完全な読書」が消える未来?/佐藤 卓己
2020/05/11
読書人公共圏としての「ヴァーチャル図書館」
実際、私たちが書物を話題にする場合、すべて読了した上で論じているだろうか。そして書物を論じるという行為は、書物自体の内容と不可分なのだろうか。そんなことはないはずだ。自分の考えを語るきっかけとして、あるいはそれを補強する素材として書物を引用することが多い。バイヤールは、それを話者が自己を投影する「スクリーンとしての書物」と呼ぶ。こうした書物への自己投影を繰り返すことで個々人は「内なる図書館」をそれぞれ持つようになる。この「内なる図書館」をアイデンティティの中核とする人間こそ読書人であり、その集合的イメージ「共有図書館」が教養の主観的実体なのである。
「内なる図書館」をもつ読書人が具体的書物について語り合い、「共有図書館」のイメージを豊かにしてゆくコミュニケーション空間(公共圏)をバイヤールは「ヴァーチャル図書館」と名付けている。それが「仮想的」と形容される理由は、この空間では相手がほんとうに読んだかどうかを問うことが禁じられているからである。こうした社交空間は「完全な読書」を求める学校空間の対極にある。そもそも同じ内容を同じ時間に同じメンバーが読むという状況も、「教室」以外では想定しがたい。
私たちが書物について語り合う公共圏は、相手も読んでいるだろうと勝手に、あるいは善意に解釈する「遊戯の空間」であり、大学入試問題のような正誤、真偽のロジックにはなじまない。読書の創造性も、遊戯的な解釈の自由度に保証されている。こうした公共圏において重要なのは、書物、すなわち「他人の言葉」を通じて自分自身について語ること、つまり自ら「内なる書物」を著わすことへの試みである。まだ読んでいない本とは現前する「他者」であり、それについて語ろうとする試みは自己発見の可能性を秘めた対話的コミュニケーションの起点である。
その際、読書について真偽は問わないというバイヤールの姿勢は、極めてメディア論的である。メディア研究の主要関心は読者への効果であり、影響力だからである。
そもそも書物の意義は、作者よりも読者によって決定されている。その書物が「名著」かどうか、「良書」かどうかを決めるのは、著者の力量ではなく読者の態度なのである。書物もメディアである以上、スチュアート・ホールの「エンコーディング/デコーディング」モデルが適用できる。アクティブ・オーディエンス(能動的視聴者)は「テレビの読み手」と意訳できるように、テレビ視聴にも書物閲読にも当てはまる。それは読者が採用する解読コードによって同じ本は良書にも悪書にもなるわけである。
言うまでもなく、リテラシー(読み書き能力)とは、読解と記述との一体性、つまり読者が著者となる可能性を示す教育的概念である。それゆえ、読んでいない本についての言説は、自分自身の未来について語ること、すなわち読者が自ら創作者(著者)になるプロセスに開かれている。このように互いに異なった「内なる書物」を備えた読書人の間で対話が成立するとき、「ヴァーチャルな図書館」は創造的空間として立ち現れるだろう。
デジタル空間における教養の危機
こうしたバイヤールの議論をデジタル空間の読書でも同じように展開してよいだろうか。バイヤールは「脱神聖化した書物」を、物理的書物とそれを読む読者の間、さらには各読者の間にある「非物質的な、意味の集合体」と定義している。それは一見すると、デジタル空間での電子ブックがデフォルトとなる未来の読書にも適用可能のように思える。果たして本当にそうだろうか。
蔵書として読書履歴が蓄積される紙の書物は物理的にストックされるメディアである。子供のころ私は学校で友だちに「見ていないテレビ番組を堂々と語る」ことができた。朝、新聞の「ラテ欄」を読み、会話をリードできたからである。こうしたフローなメディアでは本当にアクセスしたかどうかを証明することは書物以上に難しい。一方、電子ブックへのアクセス履歴は正確に残るとしても、本当に読んだかどうかはこれまで以上に茫漠としている。
その上で、読書人の「内なる図書館」にとって物理的書物も電子ブックも同じ書物といえるだろうか。物理的書物がリアルな単体として外在する意義は一般に考えられる以上に大きいはずだ。物理的書物で読者は「他者」の全体性を自然に意識することができた。しかし、電子ブックで読者が対面するのはいつも同じモニターに映るまとまりを欠いた文字データである。その断片的データからリアルな「他者」を再構成する作業は予想以上に難しいはずだ。
それこそが典拠の註が必須の学術論文においてさえ、「不注意な」コピーペーストが横行する一因となっている。また、電子ブックの読書では「他者」との対話を必要としない自己中心的な世界に逃避しようとする誘惑も強い。他者イメージを中抜きしたウェブ上のコミュニケーションが、サイバーカスケード(集団極性化)を誘発しがちなことも知られている。
だとすれば、デジタル空間では「共有図書館」、すなわち教養のイメージがますます貧困化してゆく可能性も否定できない。創造的な教養人の公共圏を守るためにも、物理的書物の保護政策はやはり必要なのだろう。
2020年5月号
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