【特集:新春対談】
新春対談:慶應義塾での学びと 戦後80年──無知を知ること
2026/01/06
「戦後80年所感」への思い
伊藤 わかりました。そのようにして同じ場所で学ばれ、いろいろなご縁の下でご一緒になられたわけですね。そして政治家として石破茂さんが進まれる中で、ずっとここまで一緒に歩んでこられたわけです。
私は「戦後80年所感」(内閣総理大臣所感 戦後80年に寄せて[2025年10月10日])にいたく感動している一人でして、ホームページに出ている文章の内容も、記者会見もすべて拝見しました。この所感から私が受けたメッセージは「無知であることを恐れろ」ということかと思っています。過去を振り返ってそれに対して謝罪をするということではなく、そこで何が起こっていたのかを徹底的に知る、という姿勢。知れば知るほど知らないことに気づくということを、総理としておっしゃっていたと思います。
この所感に関しては石破茂さんに伺うとともに、佳子さんにも同じような質問をさせていただきたいのですが、「80年所感」についてはどのように感じられておりますか?
石破(佳) はい。では、私が知っている範囲でお話をさせていただきます。夫は一貫して日本の戦後のことについて考えてきました。長年かけて、この戦争になぜ至ってしまったのかについての理解というのをライフワークとしてきたのだと思います。
2024年に総理という立場になりまして、昨年が奇しくもちょうど戦後80年にあたりました。私が聞いている範囲ですが、父親である石破二朗はほとんど戦争のことは語らなかったようです。しかし、石破二朗の過ごしてきた人生、そしてまた考え方も大きく影響しているのではないかと感じています。
所感は最終的に何をどういう表現で出すのが今後の日本にとっていいのか。その中に問題提起のようなことも入れたいと考え、すごく葛藤があったのだと思います。
一方で、「発表するな」という声がありましたが、「使命としてこれを果たしたい」という気持ちがあったと思います。発表する時期も相当考えていたようです。
伊藤 今の奥様のお話をお聞きになっていかがですか。
石破(茂) 私は昭和32年生まれですけれど、生まれた時、父親は建設省の事務次官を務めていました。歳は49歳離れていたこともあり、私にとって父は、建設次官から鳥取県知事になった人、参議院議員で、自治大臣という人であって、何か親子という感じはあまりしなかったのです。ですから逆に一種、客観的に見ている部分もありました。
私が会社に入って3年目の昭和56年9月、父が亡くなりました。旧内務省の伝統と聞きましたが、先輩が亡くなった時は後輩たちが思い出の文章を寄せて、追悼集を出すのですね。そこに父親のいろいろなエピソードを、建設省や鳥取県庁や参議院などで一緒に働いた方々が書いてくださっていて、私は父のことを相当その追悼集で知ったのです。
例えば、父が内務官僚として宮城県に出向して社会教育課長を務めていた時、ちょうど日独伊三国同盟が結ばれ、ヒトラー・ユーゲントが来日することとなり、宮城県で歓迎会が行われるにあたり、責任者となった。部下たちが一生懸命起案して、ここでパーティをやって、ここで舞踏会をやってといった案を持ってきた。責任者たるうちの父親は実に機嫌が悪く、部下が何を持っていっても「知らん」と言ったそうです。
それでも最後に決裁しなければならなくなって、まだ30代前半だった父は部下に、「お前たち、よく聞け。こんな奴らと仲よくして、いいことなんか何一つない」と言いながら、しぶしぶ決裁したのだそうです。そういうことが追悼文に書いてあった。
そして戦争が終わり、スマトラから引き揚げてきて建設省に入り、やがて次官になった。その頃、公文書の冒頭に「終戦後ここに〇年」と書くのがしきたりだったそうです。「終戦後ここに〇年、何々道路の開通に当たり建設大臣として」といった感じですね。大臣の祝辞なんかも、文書課長が起案文を持ってくるわけですが、その冒頭にもそれが記されていた。
すると次官である父が、「課長、『終戦後』というのはどういう意味かね。日本は戦争に負けたのになぜ『敗戦後』と書かないんだ。終戦という天然事象が起こったような書き方をするな」と言ってすごく怒ったのだそうです。内務官僚というのは、かなりリベラルな人が多かったのかもしれませんね。
伊藤 そういったことを追悼文集の中からお読みになったわけですね。
石破(茂) そうです。だから、父親像というのは、死んでからわかったような気がします。
父親はもうとにかく田中角栄先生に友人として心酔していました。「田中のためなら死んでもいい」と、本当に言っていました。角栄先生が生前よく、「あの戦争に行った奴が、日本の中心にいる間は日本は大丈夫だ。日本の中心からいなくなった時が恐いんだ。だからよく勉強しろ」とおっしゃっていました。
伊藤 その話を聞くと、ため息が出ますね。
石破(茂) 一番若く15歳で昭和20年に従軍した人が今、95歳ですか。だから、存命の方もいらっしゃると思うけど社会の中心からは退かれている。その時に、そういう父親を持った私が総理大臣を務めているというそのこと自体が、どうしても自分が「戦後80年所感」を書きたいと思った理由です。
「なぜ歯止めたりえなかったのか」という問い
伊藤 ただ、この所感を拝見すると、法律学科のゼミで鍛えられたスタイルが残っているような気もします。最初に非常にスタンダードなまとめがあります。また、記者会見では日本の中のことばかりを言っていて、外国に対する姿勢を言っていないじゃないかというような、いわゆるスタンダードな指摘もありました。でも、その中でやはりご自分のお考えをしっかりと、気をつけるべきことを述べていらっしゃるのが、私には非常に印象的でした。
佳子さんは、この所感の記者会見、また、この内容で特に印象に残っていることはありますか。
石破(佳) すごく悩んだ姿が印象に残っています。反論する人たちは必ずいますので、夫の伝えたいことは言えたなと、内輪としては「よかった」と感じています。
伊藤 そうですか。非常に直球なメッセージで、あの戦争は基本的には負けの可能性が高いということは、いろいろな機関の予測でわかっている中、「国内の政治システムはなぜ歯止めたりえなかったのか」ということを最初に問われる。今までの「70年談話」などの歴史認識は継承しながらも、自分に対する、また我々に対する問いとして、「なぜ歯止めたりえなかったのか」ということを将来への糧となるよう大きな問いとして掲げられたと思うのです。
石破(茂) 保阪正康先生、半藤一利先生、あるいは猪瀬直樹先生、井上寿一先生など、学者、歴史家といった方々が「なぜ歯止めたりえなかったのか」について書いておられる。ただ、政治家がこれについて考察しなければ駄目だ、という意識がありました。
伊藤 そこは大事なポイントですね。
石破(茂) 50年談話が村山(富市)総理、60年談話が小泉(純一郎)総理、70年は安倍(晋三)総理と続きました。今回の80年談話に反対だとする方々は「安倍談話で完結している」とおっしゃっていた。だけど、まさに安倍さんの談話にこそ、日本の政治システムは戦争の「歯止めたりえませんでした」と書いてある。そこを掘り下げて、なぜ歯止めたりえなかったのか、を書くべきだと思いました。
アジアをはじめとする世界に対するお詫びは、もう70年で終わっている、という認識の上で、それは「継承する」と申しました。そこから「なぜ歯止めたりえなかったのか」をきちんと総括した上で、「では今の日本においては歯止めたりえているか?」ということを問いたかったのですね。
政府、議会、メディアの3つにおいて、政府はなぜ機能しなかったのか。議会はなぜ機能しなかったのか。メディアはなぜ機能しなかったのか。では、今なら本当に機能しますかと。根源は「文民統制って何ですか」という、ギリシャ、ローマからずっと問いかけられてきた問いに対する答えを、少しでも書きたかったのです。
伊藤 「あくまでも文民統制も制度であり、適切に運用することがなければその意味はなしません」とおっしゃっていますね。
石破(茂) そうです。この所感を書く時は、秘書官全員で何度も議論したのですよ。政務が2人、あとは財務、経産、厚労、外務、警察、防衛の各省から6人、皆「なんか大学時代のゼミみたいだね」なんて言いながら、侃々諤々の議論をしたのは楽しかったですね。各省からの秘書官は、次官になることが嘱望されているような飛び切り優秀な人材で、今は皆それぞれの役所に帰って審議官などになっていますが、あの侃々諤々の議論は全員にとって共通の思い出だろうと思います。
2025年1月号
【特集:新春対談】
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