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【特集:新春対談】
新春対談:「慶應義塾の目的」へと向かうために

2024/01/09

  • 向井 千秋(むかい ちあき)

    1952年生まれ。東京理科大学特任副学長、慶應義塾理事・評議員。JAXA特別参与。77年、慶應義塾大学医学部卒業。心臓血管外科医として慶應義塾大学医学部外科学教室に勤務。85年、宇宙飛行士に選定される。94年、スペースシャトル「コロンビア号」にアジア人初の女性宇宙飛行士として搭乗。98年、スペースシャトル「ディスカバリー号」に搭乗し、2度目の宇宙飛行を経験。

  • 伊藤 公平(いとう こうへい)

    1965年生まれ。1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。94年カリフォルニア大学バークレー校工学部Ph.D取得。助手、専任講師、助教授を経て2007年慶應義塾大学理工学部教授。17年~19年同理工学部長・理工学研究科委員長。日本学術会議会員。2021年5月慶應義塾長に就任。専門は固体物理、量子コンピュータ等。

女子高から慶應で学んで

伊藤 明けましておめでとうございます。本年の新春対談は宇宙飛行士の向井千秋さんをお迎えしています。

向井 明けましておめでとうございます。今日は有り難うございます。大変光栄です。

伊藤 向井さんに昨年行っていただいた2022年度学部卒業式の来賓祝辞が実に素晴らしく感動的でした。今日は、そのスピーチの内容を起点として、さらに挑戦することの大切さや地球環境問題、ダイバーシティ、エクイティ&インクルージョン(DE&I)に関することなどを議論していきたいと思います。

向井さんの祝辞は人間味と温かみに溢れながらも、持続可能で建設的な地球環境と人間社会をつくっていくために、前向きな挑戦の大切さを卒業生の胸に刻んでくださいました。まず、向井さんの塾生時代について伺いたいと思います。どのような女子高生、医学部生でいらっしゃいましたか。

向井 私は群馬県の館林出身なのですが、当時、私が通った中学校も小学校も田舎の学校でしたので、慶應女子高に来て最初に思ったのは、同級生の人たちはすごく洗練されている、やはり都会の人たちなんだなということでした。ちょっと後ずさりするくらい色彩が違うという感じがしました。

伊藤 数ある東京の高校の中で、慶應女子高を選ばれた理由は何かあったのですか。

向井 当時、私は慶應義塾の精神とかを深く知っていたわけではないのですが、慶應を卒業したいとこがいまして、慶應義塾というのは自由で素晴らしい、というようなことを言っていたんですね。ただ、当初は、都立高校から国立の医学部に行こうと思っていました。決して裕福な家ではなかったので、私立の医学部はお金がかかると思っていたからです。しかし、当時、慶應の医学部は文学部や工学部(現理工学部)の費用とほぼ同じで、実習費等が足されているだけで、決して今の私大医学部のようにお金がかかるものではなかったのです。

中学3年生、14歳で故郷を離れて出てきたわけです。国立は東大を狙っていたのですが、東大はストになったり、当時、入りたかった日比谷高校もストをしていました。それで、慶應は医学部もあるし、一貫教育だし、ストで不安定なこともないので、慶應のほうがよいと思ったのですね。

伊藤 向井さんが慶應に来てくださったのはストのおかげだったのですね(笑)。女子高で出会った友人たちの印象はいかがでしたか?

向井 洗練されていましたね。私が慶應女子高で一番気に入っていたのは、女子高なのにいわゆる子女教育というものをまったくしなかったところです。女子高だから女子らしくという教育ではなく、本当に皆が伸び伸びしている。中等部から来た人、幼稚舎から上がってきた人たちも、とてもクリエイティビティが高い。いわゆる受験勉強で疲れてしまっているところがまったくないんです。

さらに、私がすごくいいなと思っているのは、受験校ではないので、例えば日本史の授業にしても、先生方がいい意味で自由なカリキュラムで、自由な時間の使い方をされていて、ご自分が面白いと思ったところに時間をかけられているのですね。そういうところが表面的にカリキュラムをすべて終える教育より、よかったと思いました。

伊藤 女子高では、クラブ活動はされていたのですか。

向井 スキー同好会みたいなものをやっていました。それと家庭科同好会だったのですが、食べ歩き同好会のような自由な雰囲気がありました。あとは生物学研究会を日吉の高校と一緒にやっていました。

伊藤 館林でスキーをされていたので、スキーは相当得意でいらっしゃったのですね。

向井 はい、5歳くらいからスキーをやっていました。後に、医学部の大会で、それほどのレベルではありませんが、東日本の個人戦で優勝もしました。

伊藤 女子高時代の勉強はいかがでしたか。

向井 理系科目は大好きだったのですが、やはり国語や歴史が苦手でした。また、今でも思い出すのは、女子高にはリトミックという、すごく特殊なものがありまして(笑)。私は体育が大好きで成績もよかったのですが、あれはメチャメチャ苦手でした。

伊藤 なるほど。でも、その中で食べ歩きとかも楽しまれながら過ごされたと。

向井 そうですね。友達も非常に先進的で、自分のことは自分で決めるようなところがありました。ファッションも、自分がどう見られているというより、「どう見せたいか」という意識が強い。だから、人のこともリスペクトするけど自分が流されない、いい意味の独立自尊の精神が女子高にはすごくありました。

自由に伸び伸びと出てきた枝葉を、盆栽のように切り取ったりしないで、伸びたい枝は伸ばしなさい、という教育だったと思います。

自由の重みを感じた医学部時代

伊藤 医学部の学生時代はいかがでしたか。

向井 スキー部でスキーしかやっていないという感じでしたね(笑)。当時の医学部は出欠もとらないし、実習は別として、基本的なことができていればあとは自由という感じでした。だから、いつも前の席にいる成績優秀な人からノートを借りて、それを夜行列車の中で必死に書き写して試験を受けていました(笑)。

伊藤 でもそういう医学部時代だったから、逆に伸びることができて、宇宙飛行士としてヒューストンに行けたようなところもあるのではないですか。

向井 そうですね。そこも慶應の独立自尊で、自分のリスクのもとに自分を磨きなさいというところがありました。だから、上から「これをやったら受かりますよ」と言われなくても、慶應は国家試験の合格率が高いんですよね。

伊藤 体育会では仲間と力を合わせて問題を乗り越える力が養われることもありますよね。

向井 そうですね。だから、チームワークがいい。大体年50日くらい山にいたので、他の大学の人との連携も強くなり、知識だけではなく人間力のようなものがつきます。医学部にしても女子高にしても、慶應の教育方針はいろいろな意味で自由でしたが、自由って逆に厳しいじゃないですか。「自由にしなさい」というのは自分を自制しなければいけないわけですから。

伊藤 そうですね。自由に伴う責任がありますね。

向井 慶應はそれがすごくあったような気がします。

伊藤 スキー以外で医学部時代で特に思い出に残ることはありますか。

向井 もう1つは解剖の実習でしょうか。3年で信濃町に来て初めに出合うのが解剖学です。そこでご遺体を解剖させていただき、様々な勉強をしていくのですが、ショックを受けて泣き出したり、数年に1人くらいは、「自分には向かない」と辞めたりします。

私はご遺体を解剖させていただいて思ったことは、草花でも何でも、生きているもの、命があるものは美しいんだな、ということです。そこで美しさに関する自分の感覚、考えが変わってきたのです。特に顔の解剖で顔の皮を剝いでしまったご遺体が並んでいるのを見ると、生きている時は美男子や美女であっても、皆同じに見えたのです。それを見た時に、「美しさというのは何なのだろう」とすごく悩みました。結局は、誰であっても、生きて、目を輝かせて、何かをしていれば、それで美しいのではないかと。

伊藤 内面から出てくるものということでしょうか。

向井 ええ。何かの物語で読んだのですが、昔のエジプトとかで、王様も王女様も皆同じような洋服を着せられ、奴隷となってしまった。しかし、プリンセスだった人は、どんな洋服を着ていても内面から出る美しさがあって、それは敵国の人にもわかるという話でした。付けていた宝石を奪われても、学問や、自分の内面の中で築いてきたその人らしさは、絶対に人が取ることはできない。解剖実習以降、人から取られない、自分のものが大事なんだと思えるようになりました。逆に表面的な美しさにあまり価値を感じなくなってしまったところがあります。

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