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【特集:新春対談】
新春対談:「慶應義塾の目的」へと向かうために

2024/01/09

NASAでDE&Iを実践する

伊藤 それはもう体験してみないとわかりませんね。

そして、宇宙飛行士の訓練も含め、DE&Iについてもずいぶん祝辞の中で言及してくださいました。宇宙飛行士として訓練を始められた1958年に男女雇用機会均等法が制定され、翌年に施行された。すなわち、日本で女性の社会進出が始動した時期と重なったとおっしゃいました。その時はまだDE&Iというコンセプトはなかったですね。

でも向井さんは、女性として日本人宇宙飛行士の第1期生になることに戸惑いはなかった。なぜかというと、医師として働き始めた時から、女性だから、男性だからという考え方はもうすでになくなっていた。その考え方が、グローバルで多様化している集団の中で非常に役に立った、とおっしゃいました。年齢、性別、教育、民族、国籍、宗教などのサブグループで自分の可能性を限定すべきではない。しかし、その一方で、DE&Iは、その概念は理解できても実行が難しいとも語られました。

そこで卒業生たちに対して、「あまり難しく考えずに、人はそれぞれの顔が違うように考え方も違うのは当たり前だというところから始めてみよう。そうすれば、違う意見を聞いてもストレスを感じることはなく、建設的な議論をすることができるのではないか」と呼び掛けられました。このようなお考えに至ったNASAでのご経験と、また今の日本の状況をご覧になって、思われることはいかがですか。

向井 DE&Iというのは今、企業や大学など様々なところで言われています。これは私の印象では言うは易しく、実行するのは難しいことです。また、女性にガラスの天井があると言われますが、もともと多様化した世界の中に入っていく側、自らが繭、垣根をつくっていることもあるわけです。「私は日本人だから」とか、「私は女性だから」とか、「何々だから」と自分を閉じ込めてしまっていることがある。

男女だとか、宗教などを含めて、垣根というのは意外と自分でつくってしまっている場合があります。そのことがわからないと、もうそこから出られず、いつまでたっても井の中の蛙になってしまいます。

私はヒューストンに行った時、「日本人だからできない」とは決して言わせないと思いました。私はこのポジションで飛行するとNASAから任命されているのだから、私が女性であれ男性であれ、地上では背が小さく届かないことがあっても、宇宙では届く。フィジカルなことも含めて、このポジションを務められると思われてやっている。だから、もしそれができないのであれば、それは自分が訓練をしていないからで、日本人だからできないわけではない、と常に言っていました。だから、「自分で垣根をつくらないほうがいいですよ」と言いたかったのです。

人それぞれ顔が違うのだから、皆が同じ考え方だと思わないで、もともとバラバラなのだというところから始めればいいと思うのです。皆考えが同じだと思うから、少しの違いにストレスを感じてしまう。でも「全部違う」と思って始めたら、同じであることを見つけるとそれを慈しむことができる。その上で違うところを見つけたら、「ラッキー。そこから自分は学べる」と思ったほうがいい。同質のものからは学べないですから。そうやって自分を広げて違うものを見つけて「そういう考え方もあるんだ」と思えれば、それは結局、自分の肥やしになるわけです。NASAではそのようにやっていました。

欧米の人は自分の価値観で動きますよね。マジョリティーがこう思っているから仲間外れになってしまうという心配などせず、「誰が何を思おうとも私はこう思う」という人が割と多い。だから、いい意味で個人主義的で、そして相手を個人としてリスペクトしますね。

伊藤 そうですね。マサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業したある女子学生を研究室に迎えたことがあるのですが、その人は剣道が好きで、剣道を究めたいと体育会に入ったのです。

彼女はその後、筑波大学で剣道の専門分野で修士号を取り、しばらく屋久島でネイチャーガイドをしながら、剣道も楽しんでいたのですが、やはり物理の研究に戻りたいといって、30代後半くらいで、物理に戻りました。なかなか日本人では考えられない経歴ですよね。MITを出たら、日本だとそのままエリートコースだろうと思ってしまいますが、好きなことを1つ1つやっていって、やはり物理に戻っていく。その自由さですね。

向井 そうですね。自由さと、やはり自分はまた戻れるという自信もあるのでしょうね。

チームの中に共通項を探す

伊藤 DE&Iについて、向井さんは、マイノリティーとマジョリティーがいるとすれば、まずはマイノリティーの立場でお話をされたと思うのですが、マジョリティー側にもやはり同じようなことが言えるわけですよね。

向井 はい。マイノリティーのほうが、マジョリティーの集団に入っていく際に自分の存在価値とユニークネスを探していく面があります。一方、逆にマジョリティー側が、自分はマジョリティーではなかったと気付く時があるんです。

NASAの例で言うと、1990年代の後半、ロシアが宇宙ステーションに入ってきて一緒に活動することになり、アメリカの飛行士がロシアの「ソユーズ」で飛ぶことになった。彼らNASA精鋭と言われる人たちがロシアのシステムで、ロシア語を使わなければならなくなったんです。彼らは帰って来て、「チアキたちは日本語が母国語なのに英語でこれだけやっていることのすごさがわかった」と言いました。

それで私も、「今ごろやっとわかった?」と言ったんです(笑)。マジョリティーと同じようにやっていくマイノリティーの人たちの努力が、そのようにして認められることもあります。

伊藤 ある意味、マジョリティーの人たちこそ、マイノリティーの立場を経験する機会をつくることがよいということでしょうか。

向井 そうですね。また、マイノリティーが常にマイノリティーのままとも限らない。例えばヒスパニックの人を何人採るとか、マイノリティーのほうのポジションを上げようという時代もありました。

伊藤 アファーマティブ・アクションですね。

向井 マジョリティーの天下は必ずしも続くわけではなくて、しっぺ返しがくることもあるわけです。だから、世の中の流れで自分がマジョリティー側にいることに気が付くと、アンコンシャス・バイアスがあることに気が付くし、マイノリティーはマイノリティーの中で自分がユニークネスを出さなければいけないとわかるのではないでしょうか。

伊藤 そういったことは、今後日本社会で、小学校から、どうやって教育に反映していくのがよいでしょうね。「女の子だから」とか、「男の子だから」とか、そもそも性自認がどうなのか、人によって違うような世の中にだんだんとなってきていますね。

向井 そうですね。ここはなかなか難しいと思うのですが、私は要するに公約数でいいのだと思います。公約数というのは、数値がバラバラな中で、一番の共通の数値を見つけるわけじゃないですか。その数値さえ見つかればバラバラの顔がまとまると教えていく。それが基本合意だと思うんですよね。

だから、チームの中で多様な人がいた時に、その中の公約数は何か。最大公約数もあれば、何か小さいものでも共通項を探していくのがよいのかと思います。

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