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【特集:新春対談】
新春対談:「慶應義塾の目的」へと向かうために

2024/01/09

医師になるという選択

伊藤 向井さんは、祝辞の中で、病気で苦しんでいる人の役に立ちたいという思いで医師になられながらも、病院で人生の最期を迎える方、病院で生まれて外の世界を知らずに命を終える子どもたち、そして、ご自分と同世代の方々が夢を果たす途中で亡くなられることに触れられて、運命の理不尽さに心の底から悩まれた、とおっしゃいました。

さらに、「つらく、苦しく、どちらに進めばいいか選択すらできず悩むこともあります。そんなとき進路の選択に悩むことすら許されず、この世を去っていった人たちがいることを思い出します。もし自分が夢の実現に邁進することを選択できるのなら、その選択を許されなかった人たちのためにも、失敗を恐れずに、夢に向かって新たな世界に挑戦し続けるべきです。自分の選択で人生を歩んでいけることの有難さを多くの患者さんから学びました」と続けられましたが、私はこの向井さんのフレーズを伺い、感動で身震いが止まりませんでした。

向井 有り難うございます。

伊藤 「人生は一度きり」と誰もが知りながらも、夢の実現に向けた進路の選択になると二の足を踏む時があります。私もそうですが、ほとんどの人が向井さんを初めて知ったのは宇宙飛行士として成功されてからです。そして、「あれほどのことができる向井さんはもともと自分たちとは違う人間なのではないか」と思ったのではないでしょうか。

向井さんは「自分の選択で人生を歩んでいける」ともおっしゃっていました。「希望に胸を膨らませて苦難を乗り越えて歩んでいくと、その先に続く新たな道のりが見えてくるものです」と。つまり、1つ1つを着実に、諦めずに進んでいくと希望に続く新たな道が見えてくるとおっしゃっています。ここで私が感じたのは、向井さんという方は、希望をもって、小さな努力を1つ1つ積み重ねながら一歩一歩進んで来られた方で、何か近道をして、誰もが尊敬するような存在になられたのではないのだということです。

向井 私は決して自分ができる人間ではなく、常に悩みがありました。小学4年生で医者を目指した時も、「自分よりも勉強ができる人はたくさんいるけど、たぶん医者になって患者さんを助けたいという、その1つの思いだけは絶対負けない」という思いがありました。勉強も、普通の人がすぐできることだったら、私は3倍時間をかければ必ずできるだろう、という思いでいつもやっていました。

よく「私、能力がないから」と諦めてしまう人たちがいますが、それはやってみなければわからないと思うのです。確かに私はモーツァルトのような天才ではない。でもモーツァルトだってずいぶん苦労をしていると思うんです。エジソンだって「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」という言葉を残しています。だから、どんなに能力のある人でも、ものすごい努力をしているはずなんですよね。

そう考えると、初めから諦めずに、自分がそこに行ける可能性があるのならば「行こう」と思うことが大事です。ただ、そこに行けなかった人もたくさんいます。本当に行きたかったのに、亡くなってしまったりした人を私はたまたま見ていたので、行けると思うなら10年やればできると思ってやってきました。

いつも思うのですが、知識や技術であれば、高校を卒業して6年間勉強したら医者になれるんですよね。だから、やりたいことがあれば、できないと思わずにやったらいいのではないか、と思うのです。

伊藤 小学4年生から、常にお医者さまになりたいという気持ちは変わらずにいたのですか。

向井 そうですね。私はすごく夢が多くて、映画を見て「こういう生き方がしたいな」と思うと、1週間くらいはその人生を夢見ていました(笑)。よく友達には「最近、どういう人生をやってるの?」と言われていました。パティシエにもなりたかったし、オリンピックでスキーの大会にも出たかったんですが、それらの思いは1週間くらいで消えてしまう。でも、弟が足が悪くて、病気で苦しんでいる人が横にいたということもあり、医者になりたいという思いだけは、1週間たっても消えなかったのです。だから、夢がいろいろあった中で、かなえられたのは医者と宇宙飛行士だけ、と言っています(笑)。

また、私はすごく運が良かったとも思います。自分が水たまりでもがいていても、真剣にもがいていると、人間は1人で生きているわけではないので、周りにその真剣さを見てくれている人たちもいるのです。そうすると、「こっちから出たほうがいいんじゃない?」と手を差し延べてくれたり、後ろから押してくれたりする。いい加減にやっていると人は助けてくれませんが、必死でやっていれば周りから見るとわかるし、やはり助けたくなるんですよね。そういう人たちにすごく助けられてきたと思います。

地球の健康を守る立場へ

伊藤 病気で苦しんでいる人の役に立ちたい、だから医者になりたいという夢から、今度は「宇宙から故郷の地球を見たい」という夢になったとおっしゃっていましたね。この夢の転換は斬新で、私はこの話を伺いながら、大きなジャンプのように感じたのです。

向井さんはこのようにもおっしゃいました。「飛行士の仲間たち誰もが宇宙からいとおしく見つめているのは故郷です。私も宇宙から地球、日本、群馬県の館林を見つめ、そこに住む父や母、きょうだい、友人、そして、郷土の美しさを思い出したものです」。「私たちの故郷地球は、われわれが考えているほど大きくはありません。そして多くの宇宙飛行士たちが『宇宙から見ると国境が見えない』と語るように、われわれの生息する地球環境は『One Earth One Health』として捉えられています。地球生命圈は強靱ではなく、地球資源も有限です」。

私はその時、向井さんは人間の健康を守る立場から、地球の健康を守る立場にご自分を発展させたのではないかと感じたのです。結果的に地球環境の健康を守る立場に移っていかれたのかなと。

向井 そうですね。私が初めて地球のことが人間のように見えたのはカリフォルニアを飛行機で飛んでいる時でした。砂漠の光景を上から見た時、砂漠の中に青いものが生えている部分が人間の皮膚病みたいに見えたんですね。そのとき初めて、「地球というのはやはり人間と一緒に生きているんだな」と思いました。そして、実際に宇宙から地球を見ると、本当に地球が息づいているような感じがありました。

2回の宇宙飛行をベースにして、その後、人工衛星を使って宇宙医学関係の研究を始めました。WHOなどでも人工衛星を使って地球自身を見ると、例えばPM2・5のような大気汚染や、あるいは雨季などでベジテーション(植生)が多い時、そこはマラリアの発生率が高くなるのがわかるのです。また、汚れている水を飲んでしまうとポリオなどになってしまいますが、どこの水が汚れているのか、人工衛星を使うと、雨が山のどちら側に流れるかでわかるんですよね。

地球の健康管理という意味では、宇宙の非常に広く高い視野と、センサーを上手く使うことで人間の目では見えないものが見えてくるのです。

伊藤 なるほど、そうなのですね。宇宙でのミッションは何年と何年に行かれたのでしたか。

向井 1994年と1998年の2回です。ただ、短期ミッションですから2週間と10日です。今の宇宙ステーションのような6カ月とはちょっと違います。

伊藤 1回目と2回目では違いましたか。

向井 やはり2回目のほうが要領は良くなりました。私は絶対2回目も行きたかったんです。その最大の理由は、宇宙飛行士というものを職業として確立させたいと思ったからです。通常、開発途上国の飛行士だと、1回飛んで、その後は広報活動をして終わってしまう。宇宙開発も続かない。でも日本は、1期生からずっと続いているので、職業としてのカテゴリーをつくりたかった。

また、重力のない宇宙に長くいて、地球に帰って来てすぐプレスカンファレンスをやった時、記者から渡された名刺に「重さ」をとても感じたのです。今まで自分の能力の中に隠されていたものが出たみたいな思いがしました。宇宙を飛んだら、こんな紙1枚がズシッとなるような感覚が自分の中にあったことが面白かったのです。人間というのは、地球環境に戻ってくると、重さをだんだん感じなくなり、3日くらいで元に戻るんです。するともう2日目の夜には人魚姫みたいな感じで、「明日の朝になったら、この感覚を失ってしまうかもしれない」とすごく寂しくて(笑)。

だから、2回目の飛行の時に一番期待していたのは、自分の体をまたそういう重力のない環境に慣らして、地球に来た時にズシリと重い、あの感覚をもう1回体験したいと思いました。

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