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【特集:海のサステナビリティー/小特集:幼稚舎創立150周年】
大村 亮:クラスレートハイドレートを用いたトリチウム水分離技術

2024/06/05

  • 大村 亮(おおむら りょう)

    慶應義塾大学理工学部機械工学科教授

トリチウム水分離はできないのか?

「海のサステナビリティー」というテーマと私の研究対象であるハイドレートとの関係で何を書くべきなのか、20年前であればメタンハイドレートの資源開発のことを書けばよかったのだろうと思うが、カーボンニュートラルへ向けた近年の社会の動きを考えるとメタンハイドレートにしがみつくのはよくないと考える。ここでいうハイドレートとは学術的にはクラスレートハイドレートと呼ばれる物質のことであり、水分子によって形成される、かご状構造の中に水ではない物質の分子(ゲスト分子)が入り込んで形成される結晶である。水分子の水素結合によって結晶構造の主要部が構成されることと、物質量(モル)基準で85%以上が水という組成から氷の一種と考えることもできる。今回はハイドレートと海が関係しうる話題としてトリチウム水分離をあげることとしたい。

福島第一原発の敷地内に蓄積されてきたALPS処理水の海洋放出が決定され、実施されつつある今、あの水は本当に放出するしかないのか、という疑問をお持ちの方も多いのではないかと思う。ALPS処理水とは多核種除去設備によってほとんどの放射性物質を除去した排水である。しかし、トリチウム水だけはALPS処理でも除去できない。ALPS処理水の問題はトリチウム水の残留だと言ってよい。トリチウム水とは水素の同位体である三重水素=トリチウムが水の水素と置換しているもののことであり、トリチウムをTとして化学式を示せばT₂OあるいはTHO(あるいはHTO)である。

トリチウム水を分離(あるいは濃縮)し、ALPS処理水を浄化する技術は存在しないというのが東電、政府の結論となっている。しかしながら筆者の研究室においてはハイドレートを用いることで福島第一のALPS処理水相当の100万Bq/kg程度の濃度のトリチウム水を処理して、海洋放出時の基準となっている1500Bq/kgを下回る濃度まで低減させるという分離実験を実験装置の内容積にして100㎤程度という小さなスケールにおいてではあるが成功させている。この研究開発は(株)イメージワン、創イノベーション(株)との共同研究として進められているものである。

ハイドレート法によるトリチウム水分離濃縮

ALPS処理水のトリチウム水を分離濃縮する技術は存在しないという現状の結論に至っている理由としてはその放射能濃度と総量の2つがあげられる。福島第一原発には100万Bq/kgの濃度を有するALPS処理水等が100万トン以上(1000トンのタンクが1000基)貯蔵されている。100万Bq/kgというと感覚的にすごく高い濃度のように感じるが、トリチウム水が放射性同位体として扱われるのは10億Bq/kg以上であり、放射能濃度の観点では放射性同位体には該当しない低濃度である(一方で飲料水としてのWHOの指針は1万Bq/kg以下であるから飲んでも大丈夫とは言えない)。

軍需目的(例えば水爆製造)や原子力発電関連技術の一環として、過去にトリチウム水の分離濃縮技術の開発は進められてきてはいるが、前記のような低濃度で大容量のトリチウム水を対象とするような事例はこれまでなかった。しかし、蒸留、凍結、電気分解等を行えば必ず同位体の分別は起こるので大なり小なりの分離濃縮は可能である。目下のALPS処理水の処理について求められるのは、100万Bq/kg程度の低濃度のものをさらに低濃度化して1500Bq/kg以下とする分離性能を有していて、かつ100万トン以上という総量に対応できる大規模処理向けの技術である。既存技術で最も分離性能がよいと考えられているのは、電気分解と触媒を用いた化学的置換を組み合わせたCECE法であるが、この方法は高濃度かつ少量の処理に向いたものであり、低濃度大容量の場合にはそのコストは天文学的なものになってしまうと思われる。このような状況から福島第一原発のALPS処理水を浄化する技術は現状存在しない、ということになっているのである。

ハイドレート法によるトリチウム水分離濃縮は水素同位体を含む水、つまりトリチウム水や重水(D₂O)がより高温で固体化するという現象を利用したものである。軽水(H₂O)の融点・凝固点は0℃であるのに対し、重水は3.8℃、T₂Oでは4.5℃である。氷生成だけでなく、水からなる固体であるハイドレートでも同様な現象が起こる。水ではない方の物質、ゲスト物質によって多少異なるが概ね2℃から3℃程度高温で重水はハイドレート化する。このような物性があるため、トリチウム水を含む水を固体化すれば固体側にトリチウム水が高濃度化されて取り込まれる。ゲスト物質を必要としない氷生成を用いる方が簡単とも言えるが、ハイドレートには氷よりも高温で生成するという物性があり冷却コストの面で有利である。

ハイドレートにはゲストと水の界面が結晶成長の優先的な場所となるという結晶成長の特性があり、このため塊状の固体ではなく、間隙を多く有する多孔質体として生成しやすい。図1に筆者の研究室で生成させたハイドレートの観察画像を示す。かき氷状に生成していることがおわかりいただけるかと思う。固体と液体の接触面積が大きいほど分離の効率は高くなるのでハイドレートが多孔質状に生成するという特性が氷生成では得られない分離性能の1つの理由と考えられる。

図1  圧力容器内に生成させたハイドレート多結晶体の観察画像
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