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【特集:海のサステナビリティー/小特集:幼稚舎創立150周年】
日向野 豊:わたしたちの立科

2024/06/24

慶應義塾幼稚舎創立150周年式典(5月30日、日吉記念館)
  • 日向野 豊(ひがの ゆたか)

    慶應義塾幼稚舎造形科教諭

正門を通り、生い茂る鮮やかな緑に、長旅で虚ろな子どもたちの目が冴えてゆく。バスを降りると、涼風に吹かれ、白樺に由来するほのかに甘い香りが爽やかに私たちを包む。鳥のさえずり、虫の羽ばたき、獣の足跡、高山植物に気付く。ここには無条件に私たちを受け入れ、学びを与えてくれる土壌がある。この地には、受け継がれてきた大らかな山荘がある。この日のために準備をしてきた子どもたちは、この情景に期待を膨らませ、未知の共同生活の扉を自ら開いてゆく。そこに何が待っているのか、心を躍らせる。

子どもたちは、ケンカしたり、支え合ったりして、様々なことを乗り越え、絆を深めていく。自分たちだけでは気付かないこと、解決できないこともたくさんある。それらひとつひとつの中に学びがある。自然の神秘を垣間見る子、恋心の複雑さに気付く子、今までの自分ではできなかったことを発揮する子もいる。今まで数多の美しい瞬間に出逢うことができた。勇気、優しさ、努力、責任感、趣向、希望、いきいきとしたその輝き。普段は触れられない貴重な環境の中で、東京では知り得なかった1人1人の新たな一面に心奪われる。宿泊を重ねる度、自ら支度や片付けを行い、身体を調え、心と心を合わせられるようになってゆく。帰りの日が近付き、切なさが募り、早く帰りたい気持ちよりも、まだここにいたいという想いを抱く子が増えてゆく。次第に感謝の気持ちが芽生え、輝きを胸に仕舞うようにしてこの地を去る。わたしたちの立科。

立科山荘は50周年を越え、昨年は記念式典も行われた。1973年開荘、翌1974年から幼稚舎は立科での高原学校を開始した。幼稚舎創立100周年の年であった。以降、定番行事となり、今年で51年目となる。立科より以前は、林間学校として、夏季または秋期に妙高高原や裏磐梯などで行ってきた。昔も今も5、6年生が対象となっている。

高原学校の主な内容は、蓼科山を中心とした登山、山菜やきのこ採集などの立科の自然に触れる授業、縄文の集落が近いことに由来した土器土偶の野焼きと薪割り、心に刻まれる男女それぞれの校内大会、星空観察や帰京前夜の合唱会などを行っている。特に立科でこそ味わえる自然体験の価値は破格に高い。昼夜、自然の中に居て子どもたちだけで過ごす自由時間、これが一番の思い出となる子も多い。私は11泊という高原学校を経験した。幼稚舎の規定では、5年生は5〜9泊、6年生は6〜13泊の範囲で宿泊が可能である。なお、夏休みにはクラブの合同合宿も行われる。多い子は2年間に4回も立科で寝泊まりすることになる。

管理人さんをはじめ、山荘の皆様は懇切丁寧に対応してくださり、食事や入浴、健康と安全の対策、緊急対応まで幅広くカバーして頂いている。医務の先生方には、山荘での診療や地元の病院への同伴などで非常にお世話になっている。管財部には立科町との繋がりを保ち、開荘から閉荘まで滞りなく運営して頂いている。高山植物の保護のため、増え過ぎた木の伐採や鹿の食害防護柵の設置など、ことごとく対応して頂いたことは記憶に新しい。日々の清掃や設備管理、アレルギー食対応など、おかげで豊かな学習活動と安心な生活が成り立っている。子どもたちには、私たちを支えてくれている人々や、この場を創設され、寄付され、大切に使ってきた人々、そして自分たちを包む自然に対して心を寄せてほしい。

強制性を伴ったパンデミックによる自粛。高原学校も中止または縮小しての開催となった。4クラスを2つに分割し、各2泊3日の参加希望制で再開の目処を立てた。バスも分散乗車により1クラス2台、食事はパーテーションで仕切り、消毒、マスク生活。授業、入浴、部屋での過ごし方まで大きな制限をかけて行った。一教員として無力さを痛烈に感じた。子どもたちの成長を著しく阻害し、かつて目にしてきた子どもたちの勉強や生活での姿勢、逞しさ、自治的能力、お互いの関わりなど、当然あってほしい姿がなかなか見えてこない。立科での7泊、8泊の教育効果が如何に大きいかを思い知らされた。昨年から通常形態に戻ったが、以前は立科町のデイサービスセンターや立科小学校との交流もあった。再開が望まれる。

蓼科山を子どもたちに見せて理科教諭が言った。「蓼科山は地元の生き物や人々を見守っている山です。噴火の歴史があり、厳しい風雪や雷雨にも見舞われ、長い間にその有り様が変化しています。道々に倒れる木、転がり落ちて砕ける石、ガレ場、ザレ場など様々あります。春になり、雪が溶けると、植物たちが芽吹いて来ます。これは、高原学校で色々な問題や衝突が起こりながらも、最後には同じ仲間として深め合い、逞しく育って帰ってゆく君たちのようです」。これからも立科での合宿が続いていくことを心から願う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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