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【祝! 塾高野球部甲子園優勝】
【甲子園優勝に寄せて】Enjoy Baseballはどこから来たか

2023/10/11

  • 都倉 武之(とくら たけゆき)

    慶應義塾福澤研究センター准教授

Enjoy Baseball という言葉は実に奥深い。

1872年の日本伝来以来、「一球入魂」「野球道」式の精神性を重んじる「野球」は「Baseball」とは別物になっていった。合理性ではなく忍耐、主体性ではなく服従が求められ、監督の命令のままに使われるのが学生野球の常識であった。本場アメリカの知略的な駆け引きのスリルを選手自身が楽しむ感覚は、騙し合いの不道徳な姿勢に映った。「野球」は真剣白刃の「試合」なのであり、白い歯を見せてはいけないものだった。自分を作りあげるために、全てを「野球」に捧げ尽くす覚悟を示すのが坊主頭であった。

その常識に対して、涼しく英語でBaseball といい、それをEnjoy しようという。GameをPlayするものなのだから、と。この強烈な反骨精神は、なかなか意識されない。

この言葉を使い始めたのは、前田祐吉である。2期18年大学野球部監督を務め、8度のリーグ優勝を飾った前田は、低迷していた野球部の立て直しを図るために1983年、55年ぶりの米国遠征を実現した際、この言葉を初めて用い(この遠征の参加選手に現大学野球部堀井哲也監督がいる)、その後その意義を大学野球部でくり返し語って定着させた。

前田は高校野球の現状に対しても強い違和感を公言し、「君がEnjoy Baseballを広めなさい」と、上田誠の慶應高校英語教諭・同校野球部監督就任を支援、その上田の1期生が森林貴彦現監督だ。

前田は自ら原書で最新の野球を研究し、外国遠征時は現地の文化を部員に講義したり、野球を生んだ国を肌で感じようと言って、予定になかったラスベガスツアーを組むような、視野の広い指導者だった。

その前田が残したノートを慶應義塾史展示館に常設展示している。

「ボーズ頭は決して高校生らしくない」「グラウンドへのお辞儀は虚礼」「高校野球の思い上り」「野球は教育ではない」「監督は庭師」「勝手に練習せよ」「ベンチを見るな」「野球は打って点を取り合う競技」「打て打て々々」「たかが野球じゃないか」…並ぶ言葉からは、前田の激しい怒りがほとばしり出ている。前田を突き動かしたものは、丸刈り、不合理な規律と服従の中で過ごした陸軍幼年学校の体験ではないかと推測する。そこから解放され白球を追える真の喜びを知る前田にとって、戦後の野球少年たちは「あの頃の自分」に見えたのではないだろうか。

ノートにはEnjoy Baseballの意義が次のように記されている。

①各人がベストを尽くす、②Teammate への気配り、③独自のものを創造する、④明るく堂々と勝つ。

学業との両立を大前提に、自ら考え、工夫して練習する。必要と思う鍛錬に妥協を許さない厳しさの先にチームプレーも生まれる。それでこそ、本当に1人1人が「Enjoy」できる──。この考えに基づけば、どんな苦しみも「Enjoy」に昇華され、実は精神野球と紙一重だ。大きな違いは、どのような人間が生まれるか、であろう。

勝利だけを求めるならば、途方もない遠回りであり、しかも実はこれほど「教育」的な野球はない。その苦労を一切見せず、「たかが野球」と涼しく言う前田の勇気には脱帽である。

ここでもう1つ考えたいのは、前田以前だ。慶應野球部には、確かに一貫したカラーが元々存在する。戦中を除いて丸刈りだったことはなく、上下関係も昔から緩やかだ。学業を重視する姿勢を崩したこともない。現有の選手で上手に工夫して試合を運び、勝利を重ねた戦前の大学野球部腰本寿監督時代、世間は「試合巧者慶應」という名を与えた。当時の野球文化からすれば、半ば蔑称である。107年前の普通部の全国制覇時も監督だった腰本は、当時は珍しい継投で勝利した。

1910年、慶應野球部は大リーグの猛将と呼ばれたマグロー監督に依頼して2名の選手をアメリカから招聘、1カ月がかりでマグローの科学的最新野球戦術の体系的特訓を受け、「慶應野球虎の巻」と称するノートにまとめて代々後輩に受け継いでいた。特訓に参加した三宅大輔は大学野球部初代監督となり、野球解説書、その名も『True Base Ball』(1930年)を出版。その中で我々は精神修養のためでなくただ「やりたいから」野球をやるのだ、と言い放つ。Baseballを目を輝かせながら探求した歴史が慶應にはある。

このカラーの源は、慶應義塾が元来持っている気風と言わざるを得ない。すなわち福澤諭吉の気風だ。封建思想と闘い、実証と合理性に基づき物事を判断する視座の獲得を学問の目的とした福澤の学校に相応しい、独立自尊の野球とは何か。それを自然に明るく追究する空気の中で慶應野球部は歴史を重ね、前田もそこに連なる。しかし、あくまで感覚的なものだったその伝統に、前田はEnjoy Baseballの名を与え、伝統として意識づけることに成功した。

前田ノートには、次の言葉もある。

「伝統を守るとは伝統に新しいものを付け加えること!」

Enjoy Baseballは、これからも進化し続けねばならないのだ。

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