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第11回 前田祐吉とエンジョイ・ベースボール/野球部Ⅱ

2022/07/07

監督第一期時代
  • 横山 寛(よこやま ひろし)

    福澤諭吉記念慶應義塾史展示館専門員

腰本寿の監督在任10年および優勝7回は、長らく塾野球部監督として破られることのない記録であった。これを塗り替えたのが前田祐吉(1930‒2016)で、昭和35(1960)~40年と昭和58~平成5(1993)年の二期通算18年監督を務め、8回リーグ優勝を果たした。これが現在も残る最長最多の記録である。ただし前田の貢献は記録にとどまらない。それに負けず劣らず重要なのが「エンジョイ・ベースボール」の「発明」であった。

昭和5年高知県高知市に生まれた前田は、陸軍幼年学校在学中に終戦を迎えると、昭和21年旧制城東中学(現高知追手前高校)の投手として戦後初の甲子園に出場し、翌年春の選抜では準決勝まで進んだ。昭和24年慶應義塾大学へ入学して、投手・外野手として六大学野球に出場、卒業後は社会人野球のニッポンビール(現サッポロビール)へ進み、選手・監督を経験した。そして昭和35年に29歳で野球部監督に就任したのである。

選手から「おにいちゃん」と呼ばれた青年監督は就任早々に現在でも伝説と称される早慶六連戦(秋季リーグ戦)を迎え、十分な勝機がありながら優勝を逃すという苦い経験もするが、昭和37年秋には就任後初優勝を飾った。「塾は勝負に弱い」「根性が無い」などと言われて口惜しい思いもしたが、前田はそうした意見を精神論と見てとりあわず、自らのスタイルを信じたのである。その後さらに2度の優勝を経験し、昭和40年に退任した。渡辺泰輔による東京六大学野球初の完全試合もこの時期の出来事である。

前田の退任後、野球部は三連覇も達成するが、その後は優勝から遠ざかりブランクは過去ワーストとなる。こうした時期に前田は再び監督に迎えられた。選手からの呼称は「じいさん」に変わっていた。

前田の指導の根本にあるのは慶應に入って以来三宅大輔ら先輩から説かれたという慶應流の野球で、その精神を前田は「エンジョイ・ベースボール」と表現した。その趣旨はただ楽しむということではなく①チームの全員がベストを尽くす②仲間への気配りを忘れない=チームワーク③自ら工夫し、自発的に努力することの三条件を満たし、そのうえで楽しんでプレーしてこそ上達するというものであった(『野球と私』)。

大学生の野球は大人の野球であると考えた前田は、サインを確認する選手たちに対して「ベンチを見るな」が口癖となり、自分で考えることを求めた。「監督は庭師」であり、細部は選手が自ら決めるべきものだった。また積極的な野球を身につけさせるため、慶應流のエンジョイ・ベースボールの原点と言えるアメリカへの遠征を昭和3年以来55年振りに敢行するなど強化・意識改革を進めていった。こうした努力は昭和60年秋シーズンに報われ、最初の立教戦の引き分け後10戦全勝し、昭和3年以来の無敗優勝を飾ったのである。

前田は戦前以来続く武道と結びついた伝統的な日本野球の批判者であった。「野球道」「野球至上主義」「精神野球」とは対極の立ち位置をとり、「たかが野球」と公言する。野球だけで人間ができるはずがないとして、選手に広い見識をもとめ、学業との両立を重視した。授業への出席を義務ではなく学生のもっとも基本的な権利だと捉え、やはり選手の自主性を尊重したのである。

これは慶應義塾の学風・気風とも結びつくもので、「慶應スピリットと塾野球部」と題する前田の講演メモには、福澤諭吉、小泉信三、石川忠雄に共通するものとして、「時流におもねることなく事の本質を見極めた上で(中略)……自分の信念を貫いてゆく勇気と反骨精神」が挙げられ、これを「慶應スピリット」だと記されている。

前田には腰本寿『私の野球』をもじって『野球と私』と名付けた自伝のほか、『私の発明ノート』という変わった著書もある。「素人の発明狂」と自ら称してまるで畑違いな人命救助や交通安全などについて様々なアイディアを綴ったもので、前田にとっては創意工夫こそが道楽であり、これは選手の自主性を重視する野球観とも結びついている。エンジョイ・ベースボールはその最大の「発明」で、それまで感覚的に受け継がれてきた慶應野球の歴史・伝統・気風などを言語化し、より精緻にしたところに大きな意義がある。前田にとって「伝統を守ることは、伝統に新しいものを付け加えること」であった。

こうして紡がれた慶應野球の集大成かつ出発点であるエンジョイ・ベースボールは慶應義塾が広く日本社会へ提案する価値のあるスポーツ思想であるといえるだろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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