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【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
座談会:時事新報から考えるメディアのあるべき姿

2025/04/07

前田久吉と戦後の復活

都倉 ただ、昭和11(1936)年というタイミングで一旦「時事新報」が解散し、それで、東京日日(毎日)が高石真五郎などの関係もあって題号を預かった形になっていますが、事実上廃刊になっていた。それで戦争を経験しなかったことも、時事新報の強みと言えなくもない。だからこそ戦後、戦争の時代を払拭して新しい時代に時事新報復活ということに、なってくるのだと思うのです。

その点、前田久吉の時事新報再興ということの意図は、どういうところにあったのですか。

松尾 前田久吉は、おそらく徹底的な合理主義者でした。自分の利益というものを第一に考えて、回り道はしても損を進んでするような人ではなかった。戦前に、時事再建のために東京に乗り込んだことについても、小林一三、高石真五郎に頼まれてやむなく、みたいに言うわけですが、実際のところは、東京に旗を立てるという野心が根底にあったのではないかと私は思います。

その後、戦後に時事を復刊させたのも、やはり新聞の用紙割当を、時事のネームバリューを使って分捕るという功利主義的な動機が根底にあったのでしょう。

けれども、それだけではないところが前田久吉で、東京、中央、あるいは慶應人脈みたいなところへの敬慕の念というのはおそらくあった。板倉卓造との関係が非常に象徴的だと思うのですが、前田は、板倉が亡くなってからの新聞協会の聞き取りでも、「むずかしいんだな」というように結構悪口を言っている。一方、板倉も、「商人ですからね。何かの頭がある人じゃなくっちゃ」みたいなことを言っている。

けれども実際は、前田は最終的に昭和30年に時事が合同して以降も産経の主筆として板倉を遇するし、一方で板倉は、前田ができなかった大手町の土地の払い下げを、吉田茂に仲介してもらうことによって実現させる。

今苦しいフジ・メディア・ホールディングスの中でも、サンケイビルは収益の一番の中核であるわけです。全く商売気がなかった板倉卓造がその基盤をつくったというのは、歴史として面白いし、それを奇跡的な相互理解というかリスペクトの実現ととらえることも可能ではないでしょうか。

福澤精神は継承されてきたか

都倉 戦後の時事新報は全然研究されていませんし、どういう立ち位置だったのかは、共通理解も十分できていない部分がある。やはり戦後の政治・言論空間の中での時事新報はまた1つ、福澤の時代とは違う意味での特徴があったと思います。

對馬さんは、伊藤正徳、板倉卓造等の戦後の時事新報が産経の1つの源流に位置していることが、今の産経の性格にどのようにつながっているとお考えでしょうか。

對馬 戦後に行く前ですが、昭和4年ぐらいから昭和恐慌の中で時事の経営が急激に悪くなったのですね。その時、門野幾之進が会長を務めたのですが、門野は慶應の塾長代理をやり、交詢社の理事長をやり、福澤の3つの事業を全部引き継いだ人です。この人は実は私の母方の親戚なのです。

その時代になぜ時事が潰れたかというと、硬いことを言っているだけでは経営が成り立たない。だからもちろん漫画や何かもやったわけですが、その傾向が極限化してしまったのが潰れた理由なのではないかという気がします。

だから戦後、前田久吉が復活させた時は、そうではない面をかなり強く打ち出したのだろうと思います。板倉卓造の息子の板倉譲治は三井銀行の社長をやっている。理念先行の人よりも、経営的なことを考える人がいないと戦後経営は成り立たないということで、前田や板倉が出てきたのだろうと思います。

産経新聞ですが、私は昭和51年入社ですけれど、その時はかなり大新聞的な新聞でしたね。「正論」欄をつくってみたり、一時、日本共産党と言論裁判をやってみたり。これは仕掛けられた裁判ですけれども、要するに正論路線、保守的な言論空間をつくっていこうと実験的にやってきた新聞であるし、今の紙面もそうです。

前田はもともとはそういう思想ではないはずですが、そういう新聞をつくらないと福澤精神は継承できないという形でつくってきた。私も40年間記者をやりましたが、同じ姿勢でいましたし、今の記者たちもそう思っているのが産経新聞なのだと思います。

だからそういう意味で、啓蒙思想家である福澤の考え方は、戦後の時事新報あるいは産経新聞にはかなり継承されてきたのではないかなと思っています。

都倉 有山さんは、戦後の時事新報をどのように御覧になっていますか。

有山 なかなかきちんと調べていないのですが、戦後の新興紙の大きな流れがありますが、あれが非常によくわからない。要するに、紙の用紙割当の問題やダミー会社ですよね。朝日などもダミーで新聞を出して紙を取ってきて、それを横流しするということもあり、なかなか実態がよくわからない半面、戦争に対する反省もあったことは間違いないので、それで新しい新聞をつくる。そこのところが戦前の系譜を引き継いだのか引き継がないのかよくわからないところです。

福澤のメディアミックス戦略

有山 少し、戦前に戻るのですが、時事新報というのは1920年代に新聞だけでなく、出版などいろいろな事業展開をしていますね。そのことの評価はやはりきちんとすべきではないのかと私は思うのです。福澤の文章にもメディアを使い分けなくてはいけないということを書いているものがあるので、福澤が持っている発想のもとで経営されたことは間違いない。やはり時事新報というのは新聞だけではなく、1つの出版事業としても捉えるという視点が必要です。

徳富蘇峰も国民新聞と民友社という出版事業もやっています。それはいろいろなメディアを使って啓蒙しなくてはならないという考え方で、福澤諭吉の発想を意識している。

對馬 先ほど、speechの延長だという話をしましたが、福澤というのは、やはり啓蒙をするためには手段を選ばない人だったのだろうと思います。その1つが時事新報であり、もう1つは慶應義塾であり、さらにもう1つが社交の場である交詢社。慶應義塾も交詢社も含め、さらにどんどんいろいろな枝葉を出していって、自分の考え方を世の中に広めていこうと。そのうちの1つの手段、その柱として新聞を出したのだろうと思うのですね。

有山 福澤は論文の中で、新聞は日常的に毎日発行されるもので、それによって意思が形成される。それを一定のところで月刊雑誌のようなものにまとめた意見を発表して、それによって世論へとつなげる、というようなことも言っていますね。それは私は今風に言うとメディアミックスのようなもので、そういうことも福澤はちゃんと考えている。それは当時では非常に鋭い指摘だったと思います。

對馬 だから、たくさんの本を出した。あの時代に、あれだけの本を出した人というのはなかなかいない。メディアを、自分の考え方を広める手段として使った。いろいろな形のメディアをつくらなければという考えが初めからあるのだと思うのです。

有山 新聞がメディアだということをよく認識している。メディアとは要するに何かを啓蒙するために媒介するものなのだという意識を、福澤は一番理解していたのだと思うのですね。

都倉 ですから、どういうふうに読まれるかということを念頭に、どういうふうに書くか、ふりがなをつけるのか、平仮名で書くのか、ということに非常に感度の高い人だったというのはありますね。

有山 福澤の言葉で「人民交通」(『民情一新』)という言葉があります。要するに、今風に言えば一種のコミュニケーションであって、受け手、読者を想定し、それに対応して働きかけ、それによって物質的な存在である雑誌、新聞、著書、あるいは演説や広い意味での社交というものをも使い分けるということです。

その中に時事新報を位置づけてみるという視点が、やはり近代日本における時事新報を考える上で重要なポイントかなと思います。

都倉 おっしゃったように、新聞というのはその日に一気に日本国中の人の目に触れて、翌日にはもうごみになるというような言い方をしている社説もあります。本にして出版すれば、それは長い年月をかけて人に感化を与えて、染み込んで、人を変えていくのだと。だから、本当の意味で国民をつくっていくというのは出版の仕事なのだというような意味のことを言っていますね。

時事新報が試みた多彩な企画やテーマ

都倉 尾高さんは、時事新報のいろいろな企画やテーマにもご関心をお持ちだと伺いました。

尾高 新聞博物館では、私の館長時代にも、企画展のたびに時事新報の展示がありました。今回、学芸員の工藤路江さん、菅長佑記さんが確認してくれたので、主なものをご紹介します。

まず漫画。企画展は私の就任前の開催でしたが、先ほども出ていたように、「難しいことを分かりやすく多くの人に伝える」術として、時事新報が米国から日本に紹介した功績があります。

明治23年2月6日付社告で、「caricature」の訳語を「漫画」としたのが日本初出、今や世界の「MANGA」です。日本初の日刊新聞4コマ漫画が、「百貫目の力持」(同7月4日)で福澤の甥、今泉一瓢(いっぴょう)が米国から持って帰ってきたもの。時事新報初のオリジナル4コマ漫画「無限の運動」(同9月27日)は、NHKの「チコちゃんに叱られる」でも紹介されました。その後、北澤楽天を招いて、同35年1月12日に「時事漫画」欄をつくり、それが大正10年に日曜別冊の附録になりました。

前述した「新聞広告」媒体としての成長にいち早く貢献したことも特長です。中上川彦次郎の才覚もあって、特に誇大広告への批判対策として、広告の浄化という功績も果たしたと言われています。有名なのは明治16年10月16日の「商人に告るの文」で、公正中立の報道新聞を支える枠組みとして、正当に新聞広告の効用を訴求する先見性のあるものです。

明治40年3月1日の「創刊25周年記念号」特集紙面は、実業界で成功した福澤の門下生が多く広告を出稿し、日本新聞史上最大の224ページもありました。原紙は収蔵庫に保管していますが、2018年の「明治150年展」では、そっと運んできて現物展示しました。

都倉 どうやって配ったのかと思いますね。

尾高 現物を見ると、私もそう感じます。戦争報道で言うと、時事新報が休刊する昭和11年に、「時事新報写真ニュース」として、2・26事件後の街の様子などを発行しています。「写真ニュース」は、報道写真に数行の時事解説を付した街メディアで、今のデジタルサイネージみたいなもの。新聞博物館は2019年、各紙が昭和初期に発行した写真ニュースを企画展「戦争と戦後の掲示板」として公開しました。大衆向けなので、国民の戦意を煽った側面も指摘されます。

時事新報の資料は、昭和11年までですが、同盟通信写真部が編集して時事新報が発行したもの。戒厳令下の帝都の様子もあれば、来日したチャップリンが大好物の天ぷらを食べた話も伝えています。

災害報道では、2023年に「関東大震災100年」の企画展で、社屋が焼失した社として紹介しました。震災翌日の午後には、日本タイプライター社の協力で数千枚の号外を手刷り機で刷って配っていたのですね。9月12日付から新たに据え付けた輪転機で4ページの新聞を発行し、安政の江戸大地震の被害や復興に関する論考や風刺漫画を載せ、写真製版も自社でやっていたそうです。三田の慶應義塾校舎内で発行を続けていた。

この大震災では、東京憲兵隊の甘粕正彦大尉らが無政府主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、大杉の甥を殺害する事件が起き、警視庁が陸軍省の指示で事件漏洩を防いだのですが、時事新報は9月25日付で報じています。朝鮮人虐殺についても10月23日付記事で、流言飛語が盛んな中、軍や警察も助長したのではないかと指摘しています。

最後に、2023年の企画展「多様性 メディアが変えたもの、メディアを変えたもの」について。私自身が企画し、いま書籍化も進んでいるのですが、福澤が男女同権を軸に女性の地位向上の重要性を説いた明治18年の社説「日本婦人論」も紹介しました。

いま日本では、企業・団体のDEI宣言や選択的夫婦別姓が話題になっていますが、福澤は、結婚後に男女両方の姓から一部分をとり新しい姓を創ることを提案しました。「夫婦創姓」の福澤直筆の草稿も福澤研究センターから拝借して展示しました。約330点の展示の中で、最も注目を集めたと思います。

福澤は、男性に妻の妊娠、出産の苦労を分かち合うことや、父親の育児、教育参加を求める社説も書いていますよね。早くに父を亡くし、母の家事を手伝い、女系家族で育った福澤は、社会を支える「ケア労働」の意味も理解していたのだと思います。時事新報は、日本で初めて献立欄(「何にしようネ」)をつくった新聞でもあります。

都倉 時事新報はやはりメディアがどうあるべきかということに、常に自覚的だったと思います。また言論の面でも、甘粕事件の話がありましたが、要所要所に、やはりこれは言うべきだということを言ったという誇りを持っていた新聞ではあると思うのですね。

面白いのは、石河幹明という福澤諭吉の後を継いだ主筆がいますが、この人が福澤諭吉の全集を大正時代に編纂する時、そこに「福澤先生の教えを守って自分は時事新報をやってきて、だから大逆事件の時にこういう社説を書いたのだ」というのを、福澤全集に「これだけは載せたい」と載せている。

「これだけは自分たちは守っているのだ、これは譲らないのだ」というような誇り、そういう一本通っているものがあるという自覚を持っていたことが時事新報の面白さかなと思います。昭和11年に廃刊する日の社説でも、身売りして今までの筆を枉(ま)げるよりは断然筆を折るのだ、と書いています。

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