【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
菅野 洋人:明治期『時事新報』絵付録と慶應義塾
2025/04/07
明治期『時事新報』絵付録の一覧
明治期『時事新報』絵付録の一覧*1からは、福澤諭吉と『時事新報』が日本近代美術の発展にどれだけ深く関わってきたのかが見えてくる。明治を代表する西洋画家のひとりである小山正太郎の次の言葉に偽りはあるまい(句読点筆者)。
「我々洋画家が殊に多とする所は時事新報が常に率先して洋画の紹介に力を盡した事で、折々発行される付録又は漫画の如き画の巧拙は兎もあれ、他より一歩先んじて居るのは流石に福澤先生が卓見を保持せる時事新報社の取る道として歓迎するに躊躇しない*2」。
明治10年代後半から新聞各紙は絵付録を発行するようになっていた。中でも『時事新報』の明治20年代後半からのものは豪華さと斬新さとで他紙を圧倒していた。
そもそも新聞の絵付録は、新聞の販売促進や読者獲得が目的であった。読者は現在のポスターやカレンダーのようにその絵付録を家に飾って楽しんでいたのである。中でも各紙が競合していた正月の絵付録は、応挙や北斎ら過去の巨匠たちの絵画が多かったのに対して、『時事新報』はよく現役の西洋画家たちに原画制作を任せていた。「明治十四年の政変」とほぼ時を同じくしておこった国粋主義と西洋画排斥運動のさなかに、あえて西洋画を採り上げた明治期『時事新報』は、西洋画家たちのパトロン的役割も果たしていたのである。
ここではまず、そんな明治期『時事新報』絵付録の、読者参加型、西洋画家たちのシリーズ物、そして正月と『時事新報』発行記念という3つの特徴を見ていく。
特徴1:読者参加型絵付録
1890(明治23)年4月1日から7月31日まで、上野公園で第3回内国勧業博覧会が開催された。博覧会を盛り上げるべく、時事新報社は優秀作を読者投票で選ぶという企画を出した。それは会期中の4月1日付本紙に投票用紙をつけ、7月1日に結果発表をするというものだった。この読者参加型企画は評判を呼び、投票締切は博覧会最終日の7月31日に変更された*3。結果は石版印刷所の信陽堂が出品した極彩色の石版画《婦人奏楽之図》が選ばれて金牌受賞となった。信陽堂とは、慶應義塾出身の岡村竹四郎が妻で西洋画家の政子とともに設立し、福澤が目をかけていた印刷所である。受賞作の原画も政子が描いた。そこでそれを新たに紫と墨の2色とした《時事新報金牌ヲ得タル婦人奏楽之図》が、9月5日付絵付録になっている。
1891(明治24)年6月8日付では投票で《板垣伯之肖像》が絵付録になった。だがいずれの政党にもよらない時事新報社としては、当時の自由党総理板垣退助が選ばれたのは具合が悪い。そこで次回の募集記事には「政治家を除き」と但し書きを入れることになる。その結果、8月2日付には福澤諭吉が、9月20日付には山地元治陸軍中将が選ばれた。最初の《板垣伯之肖像》は、同年8月25日に《自由党総理板垣退助君肖像》として田中福馬という人物から売り出されているから、評判が高かったことがうかがえる。
また、福澤の歌舞伎好きを示すように、1893(明治26)年には歌舞伎俳優の人気投票があり、その結果が6月30日付絵付録《三老優並ニ当選俳優肖像》になった。
特徴2:「名家洋画十二ケ月」
『時事新報』が西洋画擁護の姿勢を最も鮮明に打ち出したのが、1894(明治27)年4月から翌年3月まで発行された絵付録シリーズ「名家洋画十二ケ月」である。
1894(明治27)年3月9日付本紙に次の広告記事が掲載された(句読点筆者)。
「名家洋画十二ケ月
近来西洋の画を学ぶ者寡(すくな)からず、其道に達し其技に熟し頗(すこぶ)る見るべきの作ありと雖(いえど)も、世人普く此美術の進歩如何を知らず。斯道の為め人々の遺憾とする所なり。由て時事新報社は此美術の進歩を広く世人に紹介し、且つ其奨励の一端に供せんが為め今般/東京府下の十二名家/を撰び之に十二箇月を割当て其長する所に従て、毎月其月に因ある洋画の揮毫を請ひ、之を美麗なる彩色石版刷に付し、毎月初旬時事新報の付録として平生の愛読者に配布する事と為し、来る四月を以て始め来年3月に至りて終る此十二箇月の洋画、孰(いず)れも名家の手に成りたるものなれば四季折々に室内の装飾として、大に読者の心目を楽しめ且つ我国此美術の進歩を察するの具たるべし」。
既に日本初の官立の西洋画教育機関であった工部美術学校は1883(明治16)年に閉校しており、1889(明治22)年には西洋画科のない東京美術学校が開校していた。そして同年、日本初の西洋画家たちによる美術団体、明治美術会が結成されるもなかなか西洋画が知られる機会がない。そこで時事新報社は、この企画によって世にその魅力をアピールする。
全12回の内訳は次の通り。
第1回(明治27年4月5日):浅井忠《桜狩》、第2回(5月9日):松岡寿《挿秧(たうゑ)》、第3回(6月8日):五姓田芳柳(二世)《杜若》、第4回(7月13日):渡辺文三郎《富士》、第5回(8月3日):印藤真楯《夕涼》、第6回(9月5日):亀井至一《美人》、第7回(10月10日):五姓田義松《残月》、第8回(11月15日):松井昇《紅葉》、第9回(12月20日):高橋勝蔵《雪》、第10回(明治28年1月1日):岡村政子《手鞠》、第11回(2月27日):小山正太郎図案・長尾杢太郎揮毫《辺城雪》、第12回(3月26日):小代為重《摘草》。
日清戦争という国家の一大事のさなか、当然戦争に関する絵付録も発行しながら、『時事新報』はこの「名家洋画十二ケ月」を完遂した。中でも年が明けた正月の第10回目の岡村政子《手鞠》(図1)のきらびやかさは群を抜いている。画面右上には正月飾りがある。初春の優しい陽の光のもとで手鞠を縫う少女の幼さとそこに漂う穏やかさ。着物や手鞠の柄の細密な描写と背景の庭の大まかな描き分けも見事である。

2025年4月号
【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
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菅野 洋人(かんの ひろと)
宮城学院女子大学学芸学部人間文化学科特任教授