【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
鈴木 隆敏:時事新報の解散と福澤諭吉後の変遷
2025/04/07
『時事新報』が解散──令和6年9月11日、株式会社時事新報社は臨時株主総会を開催し同日付で解散を決議した。翌12日の産経新聞朝刊に最後の代表取締役を務めた私が以下の記事を社告の形で報告した。
「約70年にわたり産経新聞社に経営を委任していた時事新報社を解散することは誠に遺憾で申し訳なく存じます。今回は新聞全体の大きな時代の変化の中で苦渋の選択でした。『時事新報』の商標と伝統は産経新聞社が護っていく決意を示してくれたので応援してまいります」
本誌の「時事新報特集」で執筆の機会をいただいたので、同社の解散と合同について考察してみたい。最初は明治~大正の一時期「日本一の時事新報」とうたわれた新聞がなぜ昭和11年に解散したのか、である。次は太平洋戦争直後の21年元旦から、時事新報幹部だった前田久吉と板倉卓造らによって復刊された時事新報が、どうして産業経済新聞(現産経新聞)と合同したのか。そして令和6年の解散に至るまでの「産経新聞と合同以降の時事新報」の経緯だ。
福澤時代の『時事新報』
まず『時事新報』の歩みをざっと振り返ってみよう。周知のように時事新報は明治15(1882)年3月1日、福澤諭吉が創刊した。実はこの半年前、薩長藩閥政府の伊藤博文、井上馨らが、「同じ政府参議の大隈重信と福澤諭吉が結託して反政府運動を企てている」などとして、大隈と福澤系の官僚たちを一斉追放した"明治14年の政変"といわれる官製クーデターで、福澤が伊藤、井上から「官報のような新聞を作ってほしい」と頼まれて準備してきた新聞発行が宙に浮いてしまった。福澤は"伊井二君"に怒りの書状を出し、残ったヒト、カネ、モノで甥の中上川彦次郎と、わずか半年で発刊にこぎつけたのが時事新報だった。創刊号の発兌之趣旨に「独立不羈 無偏無党」の理念を掲げた。「わが同志社中は本来独立不羈(ふき)の一義を尊崇する……わが日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点にあるものなれば……国権の利害を標準に定めて審判を下すのみ……求むるところは国権皇張の一点にあるのみ」。題号の由来は「近時の文明を記して 文明に進む方略事項を論じ 日新の風潮に遅れずして 之を世上に報道せん」である。当時は自由民権運動などが盛んで政党機関紙色の強い大(おお)新聞と、娯楽中心のイエローペーパーである小(こ)新聞に二分されていた。例えば『東京日日新聞』は政府系帝政党、『郵便報知新聞』は大隈重信の立憲改進党系の色濃い"機関紙"で、福澤の『時事新報』は我が国初の中立言論新聞だった。東大新聞研究所長の内川芳美は「独立不羈と自由主義が時事新報言論活動の基軸だった。太平洋戦争後全国で新聞が発刊され日本新聞協会が発足した際、独立不羈と不偏不党は我が国新聞ジャーナリズムに共通する基本理念となり、協会の憲法である"新聞倫理綱領"の主柱となった」と解説した(『三田評論』1982年4月号)。
時事新報は創刊当時から編集、論説と販売、広告の経営部門は分離されていた。福澤は社主、経営者として統括したが、実務は主筆兼論説主幹として初期の論説はほとんど1人で執筆した。代わって経営を担ったのは明治14年の政変で外務省を追放され、福澤の新聞発行を後押しした甥の中上川彦次郎だ。当時27歳の英国帰りの少壮官僚だった中上川は社長として営業(販売、広告)の先頭に立ち、近代経営手法で広告宣伝に力を入れ収入拡大をはかった。福澤の名声と信用、中上川のアイデアと活躍により新聞界に新風を吹き込み多くの読者の支持を得たという。(社)日本新聞協会元調査課長で、機関誌『新聞経営』に10数年間「経営の先人たち」(『エピソードでつづる新聞経営史』収録)を連載した春原昭彦(上智大学名誉教授)は「時事新報初代社長の中上川は経営面に種々の工夫をこらした…中上川は広告吸収策に着眼し新聞広告の利用を知らなかった公衆に種々宣伝した。例えば"日本一の時事新報に広告するものは日本一の商売上手である"という文句(コピー)は効果があって広告が増えたという」と書いている。
明治時代の新聞広告の最大の話題は時事新報が創刊25周年を迎えた40年3月1日発行の記念特集号だ。総ページ数224頁、広告が9割以上を占め今日においても我が国新聞史上最多のページ数を誇っている。
福澤捨次郎の積極経営
次の社長は福澤の次男捨次郎。2歳上の兄、一太郎とともに明治16(1883)年アメリカへ留学し、マサチューセッツ工科大学で土木工学を学び21年帰国した。従兄弟の中上川は20年に時事新報を退社し山陽鉄道の社長をしていた。時事新報の社長はしばらく空席だったが、捨次郎は山陽鉄道を経て時事新報に入社し29年1月社長に就任した。
捨次郎は海外ニュース報道に力を入れ、30年から英字紙ジャパン・タイムズとともにロイター通信と独占契約を結び、国際ニュースは時事新報の独壇場となった。さらにアメリカの新聞報道と読者サービスのいいところを取り入れ、新しいスポーツ報道、各種事業企画を次々に発案した。私は平成20(2008)年秋、慶應義塾創立150年記念事業に関連して産経新聞に連載企画『新聞人福澤諭吉に学ぶ─現代に生きる「時事新報」』を4週にわたって執筆した際、時事新報が初めて実施した事業、読者サービスを「時事新報事始め」として紹介した。
①大相撲優勝力士写真額の贈呈②最初の美人コンクール③国際報道で世界的スクープ④漫画ジャーナリズム(新聞マンガ)の草分け⑤女のくせに(女性記者)25年の闘い⑥「よろず案内(案内広告の草分け)」⑦長時間マラソン(上野不忍池12時間周回競走)、などだ。
大相撲写真額の贈呈は、今日も毎日新聞社の事業として国技館で継承されている。国際報道の世界的スクープは先述の内川が昭和57(1982)年1月、第147回福澤先生誕生記念会講演でこう語った(同前『三田評論』1982年4月号)。「時事新報の海外ニュース報道で最も著名な出来事は大正10年11月末の4か国協約成立に関する大スクープ(中略)当時海軍記者で有名な伊藤正徳さん、戦後水戸の茨城新聞社長になられた後藤武男さんがワシントン特派員でした。2人は4か国条約が発表される1週間も前に内容をキャッチして東京の時事新報に打電。11月30日に第1報が号外、12月1日の夕刊に詳細な内容が報道され、完全に他紙を圧倒した。ニュースは東京からワシントンに逆送され、世界を駆け巡った」(要旨)。
こうした時事新報の海外ニュース報道重視、国際報道への積極姿勢は読者に高く評価された。さらに当時の新聞は『東京日日新聞』社長の福地源一郎(桜痴)、『時事新報』社主・福澤諭吉の"天下の双福"ら学者、文化人が社説を執筆した。「吾曹(ごそう)曰く……」を主語とする福地は「吾曹先生」と呼ばれ、福澤に代わって明治後年の時事新報社説を担当した石河幹明は書き出しを「〇〇あらんかなれども……」と記して人気を博した。
2025年4月号
【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
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鈴木 隆敏(すずき たかとし)
時事新報社前代表取締役社長・塾員