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【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
鈴木 隆敏:時事新報の解散と福澤諭吉後の変遷

2025/04/07

関東大震災後の窮状と解散

捨次郎社長の明治30年~40年代、大正前半にかけては、文字通り「日本一の時事新報」だった。しかし38年関西への進出を計画し『大阪時事新報』が創刊されると、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞と販売店組織の不買運動など猛反攻をうけた。東京と大阪両都市の新聞制覇を目論んだが、失敗に終わり、時事新報の経営悪化に直結した。さらに大正11年、捨次郎社長が娘婿を入社させようとしたことをきっかけに人事をめぐる社内紛争が起き、石河幹明主筆、板倉卓造副主筆ら有力幹部が相次いで退社した。翌年慶應義塾の先輩の仲介で和解し板倉ら大半の社員は復帰したが、結局石河は戻らなかった。

このあと大正12年9月1日の関東大震災で東京・銀座の時事新報本社が全焼、さらに15年6月捨次郎社長が病気辞任し11月に死去した。時事新報の経営は困窮の度を増し、昭和11(1936)年12月に解散するのだが、この間小山完吾、門野幾之進、名取和作、武藤山治ら慶應義塾出身の財界人たちが10年間に5人も「福澤先生のために」と経営に当たった。だが巨額の赤字に歯が立たず12月24日ついに廃刊し解散を決議した。

最も再建に尽力し生命まで落としたのが、元鐘紡社長の武藤山治だった。私は先述の『新聞人福澤諭吉に学ぶ』で「凶弾に倒れた武藤山治」と紹介した。武藤は愛知県出身、慶應には幼稚舎から入り、明治17年卒業後アメリカに留学。帰国後福澤の勧めで日本初の広告代理店を起業した。その後中上川彦次郎から鐘淵紡績の経営を委任され、売り上げ日本一の会社に育てた繊維業界を代表する財界人だった。武藤は実業同志会を結党して政界に進出したが引退し、大阪城大手前に國民會館を私費で建設し政治教育活動を実践していた。時事新報会長の門野幾之進らに請われ昭和7年経営陣に参画、精力的に再建に取り組んだ。(社)國民會館専務理事だった故松田尚士氏が記した『テロに倒れた武藤山治─時事新報社長として政・官・財の不正と闘った晩年』によると、武藤は9年1月から時事新報で連載キャンペーン「番町会を暴く」を掲載。東京・番町の財界人宅で政・官・財のグループが株の買い占めや会社乗っ取りをはかっている、と実名入りで暴露し大きな反響を呼んだ。しかし武藤は9年3月10日朝、出社途中の北鎌倉で暴漢に拳銃で撃たれて死去した。「番町会を暴く」は元大臣の逮捕など政界を揺るがす「帝人事件」に発展したが、裁判では無罪となり真相は今日まで不明のままである。

前田久吉と戦後の復刊

太平洋戦争前の時事新報の廃刊と終戦直後の復刊に大きな役割を果たしたのは、『大阪新聞』を創刊し後に全国紙となる『産業経済新聞』の社長を務めた前田久吉。戦後の新聞界で"今太閤"といわれた異色の新聞経営者で、開業60年を超えた東京タワーの生みの親でもある。新聞協会の『聴きとりでつづる新聞史』は、前田を「昭和期を代表する経営者を上げると3本の指に入る」と紹介した。「(前田は)新聞販売店に始まり、大正末期に『南大阪新聞』を発行、大阪市内に進出して『大阪新聞』に発展した。経済発展の動向を先取りして『日本工業新聞』を創刊し『産業経済新聞』を経て現在の『産経新聞』となっている」とある。

武藤が凶弾に倒れた後、昭和9~10年に門野幾之進会長に請われて板倉卓造が復社したり、慶應出身の毎日新聞・高石真五郎が同じ塾員の松岡正男を会長に斡旋。松岡─前田体制となって(板倉主筆は辞任、退社)、11年12月24日の株主総会を迎えた。200万円の増資か、解散かの選択で、解散多数となり"自爆"するような形で時事新報の灯は消えてしまった。解散にかかった資金も門野がポケットマネーから出したという。

昭和20年8月、悪夢のような原爆が広島、長崎に投下され敗戦詔勅の8月15日を迎えた年の暮、当時大阪新聞の社長だった前田久吉が板倉卓造に時事新報復刊の話を持ち込んだ。2人は時事新報解散時の専務と主筆の間柄だった。前田久吉の聞き取りをした時の記録によると、前田は次のように板倉を説得したという。

「日本がこういう国情になって共産党が威張りだし、なんとしてもいい新聞を作らなければならない。この際ロンドン・タイムスのような新聞を作りたい。非常に香気の高い新聞が必要だ。昔の時事新報を復活させる。残っている時事新報関係者はあなたしかいない。あなたが時事新報を復活する中心となってやっていただけないか」(要旨、表現は引用ママ)

板倉は前田の粘り強い説得と、戦後の日本の道標として福澤諭吉の独立自尊の精神を国民によびかけよう─という思いで腰を上げたとみられる。板倉は創業期の福澤と同様に社長兼主筆として「私は毎日書いていました。1か月のうち20回以上書いたこともあった」と述懐している。内川は「戦後の時事新報は進歩的な新聞界の傾向の中で、保守主義といっていい独自な立場に立って鋭い警世の言論を掲げた新聞だった。その頂点に板倉先生がいたのは言うまでもない」と独立不羈の精神が貫かれていると評価する。

翌21年1月1日、時事新報は10年ぶりに復刊された。板倉社長は「時事新報再刊の辞」で「福澤諭吉の教えの自由主義の正統を守り新日本の建設に寄与する」と力説した。廃刊時の発行号数を受け継ぎ第19,250号から再スタートし、記事も人気コラムだった寸評欄「時事小観」を復活させた。板倉社長のほか幹部社員も伊藤正徳、近藤操ら旧時事新報に関係した人々が中心となって"復刊号"が走り出した。

産業経済新聞社との合同とその後

時事新報を懐かしむ人は少なくなかったが、部数は次第に減少した。原因はGHQの指導と労働組合活動などの左翼思想全盛時代に、時事新報の保守的論調や反共路線は時流に合わなかったとみられる。この間前田久吉は25年秋、GHQによる公職追放から解除され産経と大阪新聞の社長に復帰した。産業経済新聞は昭和20年代後半に東京へ進出し、『産経新聞』と題号を変えて全国紙の道を歩んだ。そこで産経新聞と時事新報合同の話が急速に進展し、最終的には『産経新聞』の題号を『産経時事』に改題し、時事新報の社員を全員東京の産経新聞で引き受けることなどで合意が成立。30年11月30日、時事新報社は産業経済新聞社と合同し題号は『産経時事』となった。3年後の33年7月1日再び『産経新聞』に戻り、経営権を全面的に産経新聞社に委託して完全に活動を停止した。本来ならばここで会社も解散するだろうが、条件が整えばいつか再開できるように、当時の関係者は組織を残した。

その後、板倉卓造は産経時事の取締役主筆兼論説委員長、伊藤正徳は取締役主幹として健筆をふるった。とりわけワシントン軍縮会議での日英同盟破棄、4カ国条約締結の大スクープをした海軍記者・伊藤正徳が連載した「連合艦隊の最後」は読者を魅了した。板倉は広島県出身、政治科卒業後大学教員と兼務で時事新報入社。午前中は法学部長として三田で勤め午後は時事で社説を書き、37年間に執筆した社説は2,700本に上るという。21年に日本新聞協会が設立されたとき、伊藤は戦後の新聞ジャーナリズムの憲法といえる新聞倫理綱領を起草し、協会と共同通信の理事長に就任した。板倉は26年10月、同協会が創設した第1回新聞文化賞を受賞した。

新聞の題字は消えたが「株式会社時事新報社」は資本金7,000万円、累積赤字1億1,181万余円の会社として毎年株主総会を開催し、事業活動はしないで時事新報経営の一切を産経新聞に委任する"休眠状態"だった。昭和30年から昨年まで70年間、株主総会、取締役会、役員選任など商法上必要な事務処理をして存続してきた。代表取締役以下役員、監査役は慶應義塾出身の産経新聞編集幹部が務めた。昭和後期から平成5年までに11年間代表取締役だったのは三雲四郎・論説委員長(のち取締役、顧問)。平成に入って藤村邦苗氏(常務取締役編集局長のちフジテレビジョン副社長)が6年務めた後、清原武彦氏が平成17年から昨年まで20年間代表取締役だった。昨年夏、清原氏が体調不良で私に「代表取締役を頼む」とバトンタッチされた。私も取締役、監査役合わせて20年間清原氏と共に活動しており、今回の解散は最初で最後の仕事だった。昨年末清原氏の訃報に接した時、私は時事新報解散の"社告原稿"を共に忸怩たる思いで推敲を重ねたことを思い出した。

『三田評論』には三雲四郎氏が平成7年4月号に『時事新報は生きている』と、産経と合同後の時事新報について現状を報告し、「今は不本意でも時事新報を守る以外に道はない」と記した。清原氏は平成19(2007)年4月号「時事新報125年」特集の座談会『時事新報に学ぶ独立の精神』で「世論に迎合したりおもねることのない独立不羈の言論は時事新報に学ぶことが多い」と語った。

時事新報は消えても福澤諭吉が掲げた時事新報由来の「独立不羈 無偏無党」の理念と精神は、我が国現代ジャーナリズムを貫く柱として継承していかなくてはならないだろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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