三田評論ONLINE

【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
座談会:時事新報から考えるメディアのあるべき姿

2025/04/07

「国民」の概念形成と「階層」

有山 私は福澤自身が高級新聞をつくろうとしたのだと思います。高い購読料でページが厚い。経済情報が非常に充実していて難解な社説が載っている。1890(明治23)年の購読料は時事新報は50銭です。国民新聞や日本、東京日日は30銭、東京朝日は25銭で半額です。しかも東京朝日などはほとんど値引きしたと言われている。明らかに購読者が違う。ということは時事は特定の階層しか読まない、他の階層の人は読めない高級な新聞だと思うのです。

高級新聞というのは一種の階層メディアなので、誰でも読むものではなく、特定の階層だけが読みます。そして、時事新報の言論や報道の中核的な概念は「国民」というものです。改めて私が言うことではないですが、福澤諭吉の重要なテーマは、近代国民国家を日本につくるということですね。それは広い意味ではナショナリズムを形成すること。その場合の「国民」は、現実にある国民ではなく、一種の理念なのです。そういう国民こそ日本を担うべきだという理念で、量的な存在ではない。

同じ時期の日本と国民新聞も、皆「国民」という概念を用いています。国民新聞は題字がまさにそうだし、日本は「自分たちが国民主義だ」と言っていました。「国民」というものが非常に重要な概念としてあって、その中心にいたのが福澤なのです。

ただ、ここでちょっと考えないといけないことは、階層メディアとナショナリズムは、矛盾をはらんでいるのです。国民という概念には広く日本国にいる全国民だという意味が含まれている。ところが一方で階層がある。この時期に天下国家を論じるのは特定階層しかいないわけです。福澤も、特定の階層を相手に「国民だ」と唱えて、自分たちの言論や報道を展開していったのだと思います。

福島県の梁川(やながわ)という小さな町の資料を見ると、1900(明治33)年前後、新聞の普及率は20%ぐらい。その中で、定期購読者は5%ぐらいで、1万人以下の小さい町ですが51世帯しかない。この町は非常に豊かな町で、蚕を扱っている先進地域です。しかし、この時期にこの町で時事新報を読んでいるのは17世帯でした。

だから、新聞というのは経済的にも恵まれているし、時間の余裕もある人たちが読んでいる。この17世帯の人たちが梁川という町の事実上の社会的、経済的、文化的リーダーで、そういう時事新報を読んでいる社会階層が、多分福澤の目指している階層でもあったのだろうと思います。

高級紙としての時事の衰退

有山 ところが、日清戦争から日露戦争の時期に入ってくると、『萬朝報』と『二六新報』が三面記事を売り物にして、スキャンダラスなことを書いてくる。値段が安くて萬朝報は1枚1銭しかしない。月極でも25銭です。それが社会面記事を売り物にして、部数を急速に拡大します。

ただ、この時期の時事新報は明らかに独自性を持っていて、自分たちの新聞はそれとは違う、新聞の理想は自分たちの側にあると考えている。同時期の日本や国民新聞もそうです。福澤はもう亡くなっていましたが、陸羯南は、萬朝報を「新聞商だ」と言っている。要するに、新聞を商売にしていると、軽蔑すべき言葉として使っている。

ところが、日露戦争後、また高級紙は大きく動揺せざるを得なくなる。それは、その時期に民衆的傾向が始まり、産業化、都市化が進んで、読者の区別が曖昧になってきた。そして、生活が困っているといった不平や不満が政治の舞台の表面に噴出し、それが二六新報や萬朝報にとってはエネルギーとなる。広く言うと、民衆的なナショナリズムの時代に入った。

そうなってくると新聞は報道競争の中で量的な競争になってしまう。この時期に『日本』は立ちいかなくなってしまう。陸羯南は最後まで「三面記事は載せたくない」と言っていましたが、そんな時代はとっくに終わっているのです。国民新聞も転向せざるをえなくなる。しかも、その後の大きな課題は普通選挙で、「国民」という概念はだんだん量的な概念になってくるのです。

時事新報もそれに段々巻き込まれたのだと思います。経営的に考えなくてはならないのは、この時に時事新報は、国民新聞や日本とは違い、大阪に進出し、むしろ経営拡大を図ったということです。

しかし、政治的平準化は起きても社会の平準化はそこまで起きていなかった。福島の梁川では、この時期の時事新報の購読世帯は33世帯から36世帯です。1929(昭和4)年の世界不況が決定的にこの町に影響を与えるまではこの町の指導階層は時事新報を購読していた。だから、まだ安定はしていたと思うのですが、時事新報の大阪進出は非常に冒険でした。

そして関東大震災によって東京中が焼けてしまい、新聞社の販売・広告の機構をつくり直さなくてはならなくなった。読者も広告主も新たに獲得しなければいけない。結局、量的な拡張競争になり、朝日、毎日の独占協定に時事新報は狙い撃ちされる。いわゆる非売ですね。時事新報は読者がいるのに、代わりに朝日や毎日を入れるという非常に強引で、モラルも全くない競争になり負けてしまう。

しかし、一面、時事新報の側から考えてみると、時事新報がほかの新聞に取って代わられるような新聞になってしまっていたということでもあります。

それまでは、時事新報と他の朝日、毎日は質的に異なっていますから、取り替えることはできない。経済欄の記事の充実、相場記事の速報性、外国のニュースの正確さ。そうしたものに朝日と毎日は対抗できない。しかし、震災後はもう、朝日と毎日も外国に特派員を送るし、速報態勢もとれるようになる。そこに販売競争が起きると、時事新報が資本として負けざるを得ない状況になった。

梁川という町も時事新報の読者は1人もいなくなります。この町の資料を残してくれていた阿部回春堂の阿部長兵衛さんという方の新聞販売店が朝日の側につき、完全に時事新報の販売をやめてしまいました。時事新報でなくてはならない理由がなくなったのです。そうなると、時事新報は高級新聞として維持することはできなくなる。

その後は、国民精神総動員で、これはまさに量的なものとして国民を捉えて国民を均質化してしまいます。キー概念としての「国民」も福澤が目指したものから形骸化して量的な存在になっていく。近代日本のメディア史として考えてみた時に、時事新報という新聞の位置づけというのは、「国民」という概念の変遷の問題と、社会の変化が非常に集約的に現れているのではないかと思っています。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事