【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
座談会:時事新報から考えるメディアのあるべき姿
2025/04/07
福澤が想定する読者とは?
都倉 「国民をつくる」という福澤の問題意識のもとに、福澤は高級紙をつくるという意識があったと。そして、時事新報は特定階層に向けられていたのだという見方かと思いますが、この点いかがでしょうか。
私の見方は少し違います。福澤の目指していた新聞は、もちろん品位は譲りませんが、福澤は「高級」紙をつくろうとは思っていないと思いますし、特定階層に向けているというより、逆を目指そうとしていたように理解しています。
例えば、インテリ向けで政論を重視する大(おお)新聞と、庶民向けのタブロイド紙である小(こ)新聞と、明治の初期には明確に分かれていますが、時事新報はいわば「中新聞」を目指す。小新聞的な読者も巻き込み、引き上げようという仕掛けをつくっていると感じられます。
1つの例ですが、明治23年に国会が開設される時、世の中は総選挙だ、帝国議会開院だと政治に熱狂するのですが、福澤はその年、もちろん政治のことも論じますが、一方で政治と全然関係ない話題を一生懸命報道しています。それは滑稽なくらいです。相撲や博覧会の出品物の人気投票をやってみたり、歌舞伎の劇評を募集してみたり、あるいは募金活動をやってみたりと、とにかく政治だけが世の中ではないよ、と一生懸命政治を相対化しようとする。政治のことを載せているほうがよほど売れるはずなのに、あえて外そうとする。
他にも時事新報は、他に先駆けてお料理コーナーをつくってみたり、アメリカン・ジョークのコーナーをつくってってみたり、尾高さんも挙げられた「漫画」も、時事新報は政治風刺でない漫画を重視するところに特徴がある。社会の上層の特定の人々だけではなく、皆を巻き込んで「国民」をつくっていくという意識が、むしろ時事新報の特徴であるというのが私の考えです。
有山 いわゆる啓蒙で社会をつくっていくという考え方ですね。福澤諭吉というのは、広く健全な社会をつくらなければその上に政治はうまく乗っからないという考え方ですね。
ただ、やはり事実としては時事新報を読んでいた層は多くはいなかった。一方で福澤の考えているナショナリズムは、ある意味開かれたナショナリズムで「自分たちだけがナショナリズムの担い手だよ」という考え方ではない。それは確かにそうですね。
對馬 そもそも、なぜ時事新報を創刊しようと思ったか、というところから考えると、明治7(1874)年にspeechという言葉を「演説」と訳して三田演説会を始め、翌年演説館をつくった。その動機が何かということですよね。
それはやはり自分の啓蒙思想を広めるためだと思います。演説館は200人ぐらいしか入れない。200人の前で演説をいくらしても、自分の考え方は広まっていかない。それをどうやって広めるか。それで、7、8年後に新聞という手段で印刷したものを広めようというのが、時事新報の創刊の動機だと理解しています。
有山 広く啓蒙していくということですね。福澤は多分「大新聞」という言葉は使わなかったと思いますし、そもそも、大新聞の人は自分たちのことを「大新聞」とはあまり言わない。
ただ、福澤がこの時期直面しているのは、自由民権運動の末期でもあるのです。その時期に、一部の自由民権の新聞が小新聞を出し、大きなイラストや、漫画・劇画みたいなものや、連載小説などを用いた、非常に過激な啓蒙の仕方も、当時あったのです。
それに対して福澤は、「いや、これと自分の考えているのは違う」と。その意味で時事新報は高級紙であって、確かに漫画にも力を入れますが、やはり区別しなくてはいけない問題であると思います。
そういう小新聞の非常に急進的で過激な言葉遣いの系譜は、二六新報や萬朝報に引き継がれていくわけですが、それとは違う自分たちの啓蒙をつくろうと、そういうスタイルをつくるというやり方だったと思います。
對馬 福澤は、やはり啓蒙するためにレベルの高い議論をしていこうということを言っている。だけど、それだけでは読者はつかないから、今、都倉さんが言われたような漫画や料理など、要するに、今の新聞で言えば社会面とか文化面、芸能面をつくった。そのように今でいう総合紙の形をつくったほうが国民を読者として引っ張ることができるのではないか、という発想が福澤にはあったと思います。
多様な情報を提供するというモデル
都倉 その点は、他の新聞との比較においてはいかがですか。
尾高 新聞博物館では、明治初期に、郵便報知や朝野など漢文調で政治的主張を展開した「大新聞」と、読売、朝日など庶民向けの「小新聞」があったことを紹介します。その上で、「独立不羈」を掲げた時事新報登場後、新聞が、政党機関紙から報道新聞に移っていったことを伝えています。
現代のSNSによるフィルターバブルの言論環境を考えれば、同じ考えを支持する熱狂的な読者からだけの購読料基盤ではなく、購読料と広告収入の2本立てで多事争論、両論併記の媒体経営を支えようとしたことは、来館者にも理解しやすいように感じました。
また、都倉さんが「皆を巻き込む」話をされたことにも関連しますが、政治・経済・社会の報道(ジャーナリズム)だけでなく、広告(コマーシャリズム)からも、様々な社会の動き、生活情報を人々が知りたいという欲求があっただろうし、それに応えていた。
媒体経営としても、人々に硬軟取り混ぜ幅広い情報を伝えるという意味でも、その後の新聞社ビジネスモデルや役割をつくったと言えると思います。SNSの情報環境の話をしながら、「多事争論」の場が必要でしょうという展示解説をすると、来館者は納得してくれました。
都倉 福澤という人はプライドも高いので、やり始めたからには、「これが新聞のやり方なんだ」というモデルを示そうと思っていたのだと思います。その意味でも経営をきちんと考え、経営が安定するから言論も品位を保てる。持続可能な新聞の良い循環を早く提示していた。その着目はやはり非常に画期的だったのかなと思います。
大衆の時代と大阪時事新報
都倉 大阪時事新報に触れる中で、時事新報は「二流」なのかという問題が出てきましたけれど、その点について松尾さん、いかがですか。
松尾 有山さんのご発言はなるほどなと思いながらうかがっていました。私は二流、一流という言葉を、ちょっとひっくり返した使い方をしています。
この二流、一流という言葉はどこから引っ張ってきたかというと、昭和戦前期に太田梶太という元朝日新聞記者がやっていた『現代新聞批判』という新聞内報の論評からです。
それによると、「一流」というのはよく売れて支配的な新聞だと。対して、「二流」というのは、品格はあるが売れていない新聞を指す。そして、「三流」というのがスキャンダル新聞なのだというわけです。例えば花柳界の新聞みたいなもので、むしろ経営はいい。二流というのは苦しい。ただ、逆に言えば、そこに一流にも三流にもない品格や自由さ、誇りを見出すことも可能ではないか。
有山さんの時期区分に従えば、大阪時事は第2期から始まったわけですよね。私の研究も第2期の福澤捨次郎のほうから始めているわけです。
有山さんは「国民」という言葉をキーワードとして出されましたが、もう1つ、恐らくそれと重なりながら違う言葉として、関東大震災あたりから「大衆」という言葉が出てきて「大衆社会」というものが大正末期に立ち上がってきた。そういうところに福澤諭吉の理想がぶつかって苦しんでいく。その道筋は、私が研究した大阪時事新報の軌跡と重なっているようにも思えます。それをあえて「二流」という言葉、あるいは「負け組」という言葉で表現している部分もあります。
しかし、大阪時事新報も福澤精神を忘れてしまったわけではない。忘れてしまったら二流でもないので、その栄光と没落は、そこにつながっていくのかなと。福澤諭吉はもういなかったわけですが、その精神が最後まであったからこそ、いろいろな苦闘があったと考えています。
2025年4月号
【特集:時事新報と日本のジャーナリズム】
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