三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
門野幾之進

2021/05/27

福澤研究センター蔵
  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

「三十年来、余は近く先生に接せりと雖(いえど)も、余は先生の信を得ざりし。余も敢(あ)えて之を得んことを求めず。時々先生に抗してその怒りに触れたる事少なからず。この日先生の大患殆んど絶望なるの報に接し、万里他郷の客舎の一室、長椅の伏て泣涕(きゅうてい)止め得ざりし一人あるを先生知るや知らずや。」

福澤への複雑な胸中が書かれたこの文は、明治31年、門野幾之進(かどのいくのしん)が渡欧中に書いた日記の一節である。

門野幾之進は「多くの教師中、学者としては第1位を占め」、「学問の側においての全体の塾の学的権威というのを背負って立」ち、「大慶應を築き上げた恩人」であると後の塾長林毅陸(はやしろく)は、評す。門野は、長い間、塾の教頭を務め、数々の制度改革に着手、その挑戦の数だけ反発も受けてきた。教師を辞してからは、実業界に入り、千代田生命をはじめ多くの保険会社を創設し、各社長を務め、保険業界の礎を築いた人物でもある。

学的権威の「ボーイ教師」

門野幾之進は、鳥羽藩で家老を務めた豊右衛門の長男として安政3(1856)年、志摩国鳥羽に生まれる。

藩の中で位の高かった豊右衛門は学問に関心が高く、幾之進は6歳の頃から地理や物理、蘭語などの西洋の学問を学ぶ。明治2年、幾之進は、父の勧めにより上京し、鳥羽藩貢進生として慶應義塾に入学する。

当時の塾は「先生生徒という関係もな」く、「兄貴と弟というような関係で」共に寄席にも通う間柄であった。この時期はまだ福澤もウェーランドの『修身書』や『経済書』などを講義しており、塾生は等級に拘らず聴講していた。福澤はただ本を講釈するのみならず、「例えば榎本益次朗が殺されるか殺されぬかという問題」がある時に塾生に「これは如何したものか」と問いを投げかけ時事問題の解説も行っていた。「演説を聴くような心地」であったという。一方、門野には、福澤の英語は「勝手次第」で、「書くこと」は確かであったが「西洋人にわかってもわからぬでも喋って」いるように映っていた。門野らは、自ら聖坂のイギリス公使館に通い騎兵から英語を習ったり、仏語の習得に励んだりと意欲的に過ごす。

明治4年、三田への移転を機に慶應義塾は段々と学校の体を成していく。同時期、門野は最年少で教師となる。当初、周囲からは「ボーイ教師」とはやされたが、その実力は確かで、後に浜野定四郎、芦野巻蔵らと併せ「塾の三野先生」と慕われた。尾崎行雄は、門野のことを「何を質問してもサッサッと答辞し、困らせることの出来なかった」、「感服するだけでなく、門野さんは頭のよい人だから、この人の頭をモデルにして、自分の学問的方面を伸ばさなければならぬと考え、爾来これを努力実行した」と評している。高橋誠一郎も「当時の先輩中に在って最も傾聴すべき確かな意見を吐かれるのは、矢張り門野先生である」と語っている。門野は塾内に留まらず国内でも随一の英語力を擁し、「……チック」を「何々的」と訳出したのも門野であったとも言われている。明治10年には三菱商業学校、11年には立志学舎へ派遣され、他の教員らと共に各校の教壇にも立っている。また、明治13年頃、塾の財政難の時には、鎌田栄吉らと共に自分たち若手教員の給与を減らすことを提案し、さらに自ら寄付まで行い塾の危機を救っている。

教頭門野の改革

明治16年からは教頭に就任。新進気鋭の総長小泉信吉(のぶきち)の下、採点と及第の方法を厳しくする試験制度の改革にも踏み切る。しかし、塾生からは非難囂々、明治21年には、10数日間の授業ボイコット、さらに退学騒動が勃発した(同盟休校事件)。最後は、福澤が両者の間に入り、塾生と教職員を演説館に集め、演説、園遊会を催し和解を図った。福澤は門野に対しては、問題が沈静化するまで2学期間ほどの休職を勧めている。門野は、この事件以降「私は先生から甚だ信用がなくなった」、「門野は無茶なことをやるとおもったのでしょう」と振り返っている。

しかし、福澤書簡からは、福澤がその後も門野を頼りにし、種々相談を持ち掛けたり、福澤邸へ要人来訪の際に同席を求めたりしていたことが確認できる。それでも、門野は、明治31年、小幡篤次郎から塾長就任の打診を受けた際にも自分がなると福澤と喧嘩する時が必ずくるから「イヤ」だと伝え、鎌田栄吉を推薦し、サポートしたいと断っている。なお、福澤は門野のことを当時から「文才穎敏」と評価するが、晩年「君は甚だ物がわかっているのはいいけれども、人の説に対して反対して、それはいけませぬ」、「人が右というと左という。そんなことをしても大した大きな利害といふものは滅多にない。却って人を刺激するのみで一向利益がないから君に注意して置く」とも助言している。

明治23年、塾は、大学部を発足する。原案は、門野がほぼ1人で調べ、主にアメリカの課程を参考に作成した。鳴り物入りの大学部であったが、予想よりも学生が集まらず、塾全体の経営を圧迫した。それでも、大学部は福澤の意向で存続が決まる。その後、大学部中心の学制改革案を手掛けたのも教頭門野であった。

この新しい機運の中、門野はさらなる学事改良視察のため明治31年から翌年にかけて渡欧する。本稿冒頭の日記は正にこの最中に書かれたものであった。帰国後、門野は、科(学部)の境を取り払い、学生が各々の目的に応じて自由に科目を選択できる新しい大学部学制度改革案を実行した。社会に出る学生が自由な意志と独立心を持って卒業後も活躍できることを理念として作成したものであったが、分科制の要望は根強く、周りの理解を得ることができず1年で廃止となってしまう。一方、自前の教師養成を目的に留学生を派遣する制度は、この頃の門野の提議の功績であった。他にも門野は「修身要領」の編纂にも携わり、全国での講演を担うなど、福澤が世を去るまで塾内において精力的に動いた。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事