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【福澤諭吉をめぐる人々】
門野幾之進

2021/05/27

実業界への転身

福澤の死後、塾は、塾長に鎌田を据え置きながら、小幡篤次郎を社頭、門野を教頭と兼任の副社頭とした新体制を整えた。しかし、その翌明治35年、塾監という役職に北川礼弼(れいすけ)が着任すると、塾生からの不平が溢れる。鎌田塾長・門野教頭・北川塾監の責任領域曖昧な状態が「三頭政治」と揶揄され非難された。これを受け、門野は、教頭を辞し、塾の教員そのものを退職した。

門野は、当時、塾の同窓の中で営む者の少なかった生命保険業に目を付け、同じく塾を辞した北川と共にすぐに事業経営を企てた。保険は、福澤が『西洋事情』の中で「請け合い」として世に先駆け紹介した事業でもあり、また、学問的素養を発揮しやすい事業でもあった。1年の準備期間を経て明治37年、利益を優先しない相互会社として千代田生命保険を創立し、門野は社長に就任する。

創業当時は、多くの塾員の加入によって支えられ「塾の会社」とも称されていた。やがて日露戦争の好況や関東大震災での対応などにより信頼を得て昭和3年には業界2位にまで上り詰める。平沼亮三は、「千代田生命があれだけになったのは、手腕のある重役が多かったからだとは思いますが、1つは門野先生に対する慶應義塾の大勢の感謝の念が籠った大きな現れだと思います。慶應義塾は福澤先生の下に門野先生という学問的に偉い人が居ったから今日の代を為したので、それに対するお礼の輪が千代田生命に現れたのではないかと思います」と評している。門野は、千代田生命の他にも明治41年に第一機関汽罐保険、明治44年に日本徴兵保険、大正2年に千代田火災保険、大正9年に千歳火災海上保険を創設し、各社長を兼務した。門野の保険業界の功績は、死後、米国グリフィス保険教育財団に認められ、昭和58年、保険殿堂入りを果たしている。

保険事業の他にも明治13年に三井信託取締役、昭和7年には、貴族院議員に勅撰されるなど、国内で大きな存在感を示した。加えて故郷、鳥羽に対しても、子どもたちに本を贈ったり、奨学金制度を創設したりするなど心を配った。死後の昭和18年には、幾之進の遺志を継ぎ、「靄渓(あいけい。門野のイニシャルI・Kをもじった雅号)奨学会」が遺族により創設され、現在までのベ千数百名の子どもたちに奨学金、記念品を贈り、約2万5千冊もの図書を小中学校に寄贈している。

一生を賭けて学校の世話を

門野は、教頭と評議員を辞して後も塾への支援を惜しまなかった。副社頭や理事を長く務め、82歳で世を去るまで社中最長老の1人として尊敬を集めた。大正11年(鎌田塾長辞任)と昭和2年(小泉塾長渡米)には塾長事務の代理も担当した。

また、大正5年の医学部設立の際には多額の寄付を、大正8年千代田生命の15周年の際にもらった重役慰労金を寄付するなど金銭面においても支援を続けた。さらに、福澤の3大事業である交詢社、時事新報社では共に会長を務めて貢献し、時事新報社では、昭和3年の経営難時、再建のために多額の私財を投じている。

板倉卓造からの追悼文中において「頑固な性癖を持」ち「ヒドイ天のジャク」と言われるほどの門野であったがこのように「学校の世話だけは一生力のある間は努め」ることを信条としてきた。これは、他ならぬ福澤から託された想いがあったからであった。門野は、福澤が一度目の大病から快復した後のある日「一つ君に頼んで置くのは、どうも今の人は一生を賭けて学校の世話をしようといふ人が余りいないからして、そこで君に頼んで置く。君は決して脇目をふらず今後世話をしないか」との願いを福澤から「懇々」と伝えられていた。

「余は先生の信を得ざり。余も敢えて之を得んことを求めず」と書かれた冒頭掲載の日記前半部には「哀悼措く能わず。回顧すれば数月前先生麻布の邸に於て決別したるとき戸口まで送り来りて、父の子に対するが如く印度洋の暑、北欧の寒、其身を慎むべきを戒めたるときの其顔、其声、今尚歴然我耳目に存す」と記されている。福澤との間に複雑な想いを有した門野であったが、心の奥底で繋がる福澤との関係もまた深く固かったことを感じる。(本稿の門野や周囲の発言の引用はすべて『門野幾之進先生事蹟文集』に拠っている)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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