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【福澤諭吉をめぐる人々】
北沢楽天

2023/10/19

  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    慶應義塾女子高等学校教諭

福澤諭吉が亡くなったのは明治34(1901)年。北沢保次(きたざわやすじ)が『時事新報』に入社したのはその少し前である。2人のやりとりを示す資料は残っていない。

『時事新報』の創刊は明治15年。諭吉は、読者に分かりやすく情報を伝えるため、西洋の新聞に倣って「新聞用の絵」を紙面に挿む必要性を感じていた。その描き手として期待したのが、義理の甥・今泉秀太郎だった。保次はその秀太郎の遺志を継ぎ、多くの漫画を読者に届けた。『時事新報』を西洋の新聞と遜色ないものに引き上げようとした諭吉の心ざしを体現した人物だったと考えられる。

図らずも、西洋文明を模範とし、あらゆる面で日本の近代化を目指した諭吉のそうした気概は、保次にも直接伝わっていたかもしれない。下にある漫画は、時事新報社を訪れた晩年の諭吉を回想して描いたものである。画面の一番手前の人物は保次自身とされる。諭吉をあえて大きく描いているところに、諭吉に対する畏敬の眼差しが反映されているように思う。

漫画家デビュー

保次は明治9(1876)年、東京・神田に生まれた。幼い頃から絵が得意で、明治25年頃に画塾・大幸館に入って絵画の基礎を習得する。

明治27年頃には横浜へ移り、アメリカ人のソーンが経営する絵入り英字新聞『ボックス・オブ・キュリオス』で日本の風俗画を描くようになる。英語と格闘しながら、大きな刺激を受けたのは同社で働くオーストラリア人のナンキベルで、西洋風の写実的な諷刺表現を学んだ。

翌年ナンキベルはニューヨークの諷刺画雑誌『パック』に活躍の場を移す。描き手を失ったソーンは保次を正式に採用し、挿絵をすべて任せるようになる。この頃、日清戦争の講和条約が話題になっていた。保次は清の李鴻章を題材に諷刺画を作成し、『ボックス』に掲載した。後年、その作品こそ漫画家としてのデビュー作だったと回顧する。

北沢楽天画「晩年の福澤先生」(昭和6年、時事新報日曜附録『時事漫画』掲載)

楽天主義・楽天

「漫画」という言葉は、江戸時代は「思いつくままに描いた絵画」といった意味だった。ただ、アメリカから帰国後、明治23(1890)年から『時事新報』に諷刺画を描いていた秀太郎は「諷刺画」を指す言葉として使おうとした。

それまで諷刺画は「ポンチ絵」と称するのが一般的だった。しかし秀太郎は、従来と異なる諷刺画を目指して自身の作品にこの言葉を当てたと考えられる。渡米前後の秀太郎の作品を比べると、極端に誇張するポンチ絵風の表現が消え、外国新聞で見られた写実的な諷刺表現になっている。こうした写実性の導入こそ、秀太郎が訴えようとした「ポンチ絵」と「漫画」の違いだろう。

ただ秀太郎は病気がちで、『時事新報』は後継者を探すことになった。明治32年、23歳の保次に月給50円の誘いが届く。小学校教員の初任給が8円の時代である。保次が選ばれた理由は記録されていない。しかし、アメリカで見聞した諷刺表現を目指した秀太郎と、横浜で同様の表現を学んでいた保次の共通点が両者を結びつけた可能性は、考えてよいと思う。

同年、保次は『時事新報』に入社する。新聞各社が読者獲得を目指して鎬を削る中、漫画をその戦略の1つに据えた『時事新報』は、明治35年、日曜日の紙面1ページを全面漫画で構成する「時事漫画」欄を新設し、保次に任せた。秀太郎は明治37年に亡くなるが、題字の「漫画」は消えなかった。その心ざしは保次に引き継がれていく。

なお、「時事漫画」が始まった頃、若者を中心に厭世観が漂っていた。これに対し、保次が紙上で逆説的な人生観である楽天主義を訴えたところ、それを気に入った人が「楽天」の印を作ってくれた。その人物は不明だが、保次は明治36年から「北沢楽天(きたざわらくてん)」と名乗るようになる。

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