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【特集:一貫教育確立125年】
座談会:「同一の中の多様」が育む豊かな教育とは

2023/10/05

一貫教育校の教員の特質

山内 先ほど河野さんが「半学半教」と言われましたが、一貫教育校の教員についてどう感じておられますか。

河野 教員も慶應義塾大学出身の教員、一貫教育校出身の教員もいます。大学院生が非常勤講師をやるケースもあります。また体育や音楽、美術の教員は慶應義塾ではなく専門の学校からという方も多く、多種多様です。

ただ、教員は、長らく同じ学校にいるとその学校だけの常識がいつの間にかできあがり、それだけが正しいと思い込んでしまう、場合によっては客観性が乏しくなってしまうこともあります。最近は一貫教育校間の人事交流が盛んになって様々に行き来が行われています。教員の中からも、新しい血を常に求め、互いに刺激し合い、学び合うことが必要であると感じています。

山内 一貫教育校の教員は生徒の在学中だけでなく、卒業後、例えば中学の先生であれば、生徒が高校生になっている段階、大学生の姿、社会人になってからの姿と、かなり長い時間、1人ひとりの生徒がどのように育っていくかを見ることができる。受験中心の学校のような目先の成果を気にしないでよいのは私たちにとって幸せなことですが、同時に長い時間軸で教育を考えることができます。これは教える側としては大変な勉強の機会になっているのではと思います。

河野 それを一番感じるのは生徒の進級や進学の検討を行う際です。その時に生徒1人ひとりその情況について、議論しますが、これはその生徒を多方面から見る最も良い機会になります。生徒の将来性を他人事ではなく自分事として捉える教員たちが披露する様々な考え方は、大変貴重なものです。生徒が小・中・高と一貫教育校を経て育つ長い間に触れ合った数多の教員たちの教育観を共有することができるからです。ここから得られる知見は、われわれ教員の活動に大きな利をもたらします。生徒が前途有為な大学生になり、やがて社会人となって世に貢献する、生徒の成長を願う教員の役目は生徒の在学中に限らないと思います。

山内 斎藤さんは大学の教員として、中等部長としてご覧になって来た中で、一貫教育校の教員にとっての大事なことは何だとお考えでしょうか。

斎藤 先ほど那須さんが、女子高の専門性の高い能力・知識をお持ちの先生と高校時代に直に話すことができたのはよかったとおっしゃいましたが、全くその通りだと思います。

子どもたちは自分が関心を持ったことに関しては知的好奇心旺盛ですし、専門性が高いことをどんどん追究したくなります。その時、それぞれの専門分野の最先端に通じている先生が身近にいるのはとてもいい刺激になります。その意味で一貫教育校の教員はそれぞれの分野の高度の専門家であるべきですし、また自分の学問も常に磨いていてほしいと思います。

山内 今までの歴史を振り返ると、各校の教員諸氏が慶應義塾の学問や文化の幅を拡げることにも貢献してきたように思います。例えば、私の幼稚舎時代の担任の桑原三郎先生は、しばしば児童文学の名作を朗読して下さりましたが、大学ではそれらの作品を取り上げて、児童文学史の講義をしていました。塾内各校の教員は、大学の専門の枠に収まらない分野に打ち込むこともできます。また、近年の大学のような業績主義に追われることもありません。そう考えると、ライフワークを時間をかけて深めることができる塾内各校の環境はもっと大切にしていかなければならないと思っています。

斎藤 慶應の一貫教育のいいところは、その意味での縦のつながりです。大学、大学院にはそれぞれの分野の最先端を研究している教員がいますので、そのような教員が何かと一貫教育校の高校や中学や小学校まで教えに来てくれるチャンスがある。これは今後もぜひ生かしていただきたいところです。

私が中等部長の時に現在の伊藤公平塾長が保護者としていらっしゃり、伊藤さんと、大学の一線の教員が中等部生に話をする講座をつくりましょう、ということになりました。中学3年生の選択授業の時間に伊藤さんをオーガナイザーに、毎回理工学部を中心とした大学の教員に自然科学の最先端の話をしてもらい、生徒と自由に意見交換する授業をしてもらいました。伊藤さん自身も量子コンピュータや量子力学の話をして下さいました。

これは子どもたちに本当にいい刺激になった。その時、伊藤さんは、原子力の問題については専門家としてあくまで中立的な立場でお話しします、と断ってお話しされましたが、授業が終わった後、中等部生がやって来て、中立の立場で話すとおっしゃったけれど、原子力のメカニズムについてこのような形で一般に向かって話すこと自体がもう中立ではないのでは? と問われてドキッとした、と言われました。

教員にとっても生徒とのやり取りを通して、ついやり過ごしていたところに改めて目を向けさせられる。お互いにとっていい刺激になるのではないかと思いました。

那須 大学のリソースを使わせていただけるという意味で、素晴らしいと思ったのは、女子高の春休みに、三田の大教室で開催された数日間のコンピュータプログラミング講座に参加させてもらったことです。大学が企画して、内部の各学校で参加したい人は誰でも参加できるというものでしたが、当時まだパソコンが珍しかった時代でしたので、今振り返っても、非常に貴重な機会をいただいたと思います。私自身はこれをきっかけとして、コンピュータに興味を持つようになり、銀行に就職した後、当時最先端だったインターネットを導入するというプロジェクトに携わることができました。

様々な年代に教える経験

山内 縦のつながりの中で、普段と違う年齢の低い生徒たちに話すのは非常に面白い、勉強の機会でもありますね。

私自身も横浜初等部長の時に初等部の1、2年生にいろいろな話をしましたが、例えば福澤先生の話をするにしても、大学生に話をするほうがよほど楽です。子どもたちには難しい言葉でごまかすことができませんので、すべてわかりやすい言葉で話さなければいけません。相当勉強しなおさないと話せないのです。逆に、どんな年齢の生徒でも、こちらが努力すればどんなに難しいことでも伝えられる。そんな理解力を子どもたちは持っていることも実感しました。

牛場さんもいろいろな世代の生徒、学生、塾生に接することがあると思いますが、いかがですか。

牛場 毎年、一貫教育校向けの夏休み研究体験というのをやっています。脳のことや、AIのこと、医療のことなどを大学院生が一生懸命教えています。

その時、彼ら一貫教育校の生徒は、同じ慶應でも行っている学校が違うし、最初は自分とは違うタイプだと思ったけれど、3日間同じ場所で同じ目的を持って先輩たちに教えてもらううちに、横のつながりも深まってすごく仲良くなった、と言うのです。

それを見て自分自身が、幼稚舎の時に大学院生のお兄ちゃんみたいになりたい、という刺激を受けたのと同じシチュエーションが目の前で繰り広げられている感覚がありました。これが、ボトムアップで生み出されている縦糸と横糸の編み目の豊かさ、ふくよかさだろうと思います。

誰から言われるわけでもなく、ルールで決まっているわけではないけれど、「やってあげたい」という無償の愛のようなファミリー感。これは一朝一夕ではできない、伝統のなせる技だと思います。そのようなところで育った自分としては、今度はそれを提供する機会をたくさん持ちたいと考えています。コロナもようやく収束しましたし、幼稚舎生のためのコンピュータ教室を今度は僕が開きたいと思っています。

「甘え」と「安心感」

斎藤 今まで、一貫教育のいいところばかり述べてきましたが、もちろん改めなければいけない面もあります。その1つは、あまりに恵まれた環境にあるので、「まあ、何とかなるだろう」とつい甘えてしまう傾向があるところです。慶應の一貫教育の中で流されていけば、大抵のことは何とかなってしまうのは事実です。その意味での甘え、緩さ、自分に対する厳しさが欠ける。よほど気をつけないと誰でもそうなりがちです。

環境に身を委ねてしまう、身を預けてしまう、流されてしまうケースがなきにしもあらず、これは事実です。教員の立場から、それでは結局、自分のためにならないということをどの段階で、どれだけ本人にわからせるか。それは試行錯誤でしたが、いろいろ考えさせられたことがありました。

那須 女子高は、とにかく「自由」でした。私が入学する前の年までは、試験監督を置かずに、定期試験が行われていました。また、日々の宿題がなく、高校3年の3学期は卒業セミナーと言って、まるで大学のようにすべての授業が選択となって、多岐にわたるテーマから自分の関心のある授業を取ることができるなど、勉強に関しても生徒の自主性を重んじていました。

ところが、カンニングをする生徒や、卒業セミナーに出席しない生徒が出てくるなど、束縛のない自由を求めるばかりで、自由に伴う責任を果たさない生徒が見られるようになったことから、自らの力で、女子高生の意識を変えていかなければいけないと危機感を感じ、生徒会が全校集会を開催したことがありました。先生に怒られたから行動を改めるのではなく、どうあるべきかを自分たちで考えて行動することが大切だと考えた結果ですが、普段あまり真面目にならない女子高生に耳を傾けてもらうのはとても大変だったことを覚えています。

山内 皆さんのお話の中で何度か「安心感」という言葉が出てきました。この安心感は実は大切だと思っています。

しかし、それは斎藤さんが言われたような甘えのほうへ流れてしまう安心感ではなく、戻る場所があるゆえに、逆に思い切ってチャレンジしていける安心感でなければなりません。そのためには、那須さんの話のように、生徒にもある種の心構えが必要です。また、かつて一貫教育を担ってきた教員諸氏がそうであったように、「自由」や「独立」の意味を若き塾生たちと共にしっかりと問い続けることが不可欠です。

那須 今まで塾員の少ない職場で仕事をしてきましたが、一貫教育校で育った安心感は勇気を与えてくれる力になっています。万が一、何かあった時にも誰かに相談できるという思いで、外でチャレンジできるような、とても心強い存在だったと思います。例えば女子高の先生に相談に行くとか仲間と話をするとか、戻れる場所があるというのは非常に心強いです。

山内 斎藤さんは甘えの問題を重要な課題としてご指摘下さいました。安心感をどのように捉えていらっしゃいますか。

斎藤 山内さんが安心感という言葉で表現されたことは、私自身の言葉だったら信頼感という言葉で表現するかなと思いました。同じ慶應義塾の教育を受けた者として、まず人間としての基本的な信頼感が生まれるということは間違いなくあると思います。

それに支えられて、那須さんのように慶應の出身者があまりいない分野へ出ていく時、いつでも帰ってこれる支えとなることもあると思います。

私が経験した中等部の場合、とりわけ外から入ってくる女子は、学業的にも才能の面でもものすごく優秀です。彼女らを見ていて、これだけ能力のある女性たちが慶應義塾にいるのだから、この能力を社会にぜひ生かしてほしいと思っています。

ただ、専業主婦として家庭に入っていかれる方も、なお多いようにも思います。社会にとっても本人にとっても、これは本当にもったいない。那須さんは世界へ出ていかれましたが、もっとたくさんの人が出ていってほしい。これは一貫教育校出身者だけでなく、現役の女子学生の皆さん全員に改めて望みたいところです。

慶應出身者があまりいない分野にも、もっと出ていってほしい。例えば政治の分野などもそうです。女性の政治家が安心感を持って活躍する。背後に慶應義塾という信頼できる支えを持ちつつ、外へ出ていく女性に期待します。私たちも全力でバックアップしなければいけない。

牛場 間違えた時には叱ってくれる、手を差しのべてもらえる、という安心感があるからこそ、思い切って飛び出せるわけですよね。そのことを皆がもっと自覚したらいいと思います。斎藤さんがおっしゃったように、その恩恵に気づかず、ぬるま湯でエスカレーターで行けると思ってしまう子がいるのも事実です。それにどれだけ早くから目を開かせるような体験を提供していけるかは大きな問題だと思います。

今、留学も含めて、グローバルな活動が多くなっていますが、これはもっとやるのがよいと思います。それから、慶應は総じて、地方への理解については鈍い部分もある。障害の問題もそうです。そのようなことについて学んでいく体験はまだ足りていないと思っています。

さらに経済的な格差の問題。今、大学でも、勉強したいという学生がご家庭の経済的な困窮で休学を繰り返して、辞めてしまうことがあります。一貫教育校の人は総じて恵まれている家庭の方が多いから、そのようなことに対する感度が低いようにも思います。私自身も感度をしっかり上げ、こうした問題に取り組みたいと思っています。

先ほど言いましたように、慶應というのは閉鎖的ではなく、本来はいろいろなカルチャーやバックグラウンドの人を理解して、努力している人を認め、自分の仲間だといって支えていく開放性や包摂性の伝統があるはずです。その力をもっと使い、様々な問題をより自分事にして、もう一段厚みのある義塾になれればいいなと感じています。

より多様な交流・連携を

山内 将来に向けて慶應義塾の一貫教育として大切にしたいこと、あるいは課題などがあればお話しいただきたいと思います。

河野 私は一貫教育校同士の交流の機会がますます増えることを期待しています。高校と大学の授業等での連携もそうですが、高校間でも、今やリモート授業もできますので授業交換等の可能性を広げることができるのではないか。例えば、一貫教育校の5つの高校の生徒たちがある時間を共有する。志木高や塾高や女子高はその瞬間は共学にもなるわけです。生徒たちは精神的に高揚して授業を受けるといった楽しみもあるかと思います。また、中学・高校間での連携が盛んになれば、中学の生徒たちもより大きな目的意識を持つことができて、より意義のある進学ができるのではないかと考えます。

留学について言えば、欧米と日本は学期が始まる時期がずれているので学年をまたぐ場合がある。その場合、卒業年次をまたいでも一貫教育校では進学もできるということにできないでしょうか。このままどの学校も学年制だけをやっていてよいのか。単位制も導入して、自由に海外と交流できる機会を増やしていくことも考えていいのではないかとも思うのです。

もう1つ、日々生徒と対話していると家庭教育の重要性を感じることがあります。生徒はまだ家に縛られている。これはもしかすると斎藤さんのおっしゃっている甘えとつながるのではないか。生徒が大学の希望学部を自主的に決める際に、親の意見は、もしかすると家でのみ通用するものではないのかと目覚める時があります。その時に生徒は独立へ向かうのだと感じます。

山内 福澤先生自身が独立の気力ある個人を育てるには、まず家庭が重要だと言われました。そして日本全体の家庭教育の向上のためにも尽力しました。慶應義塾としても家庭に対してメッセージをどう出していくかは、大きなテーマではないかと思っています。

那須 慶應のよさをオール慶應に浸透させ、これが脈々と続き、また各家庭にもそれが伝播していくのが理想の姿だと思います。大学から入った人たちにいかに慶應の塾風になじんでもらい、またサポーターになってもらえるかが大事だと思っています。

斎藤 一貫教育の下になればなるほど、学業成績に関わる勉強とは違う経験ができる機会に恵まれていると思います。この経験がその人の懐を作ります。一貫教育は懐の深い人間を育てるのに適したシステムだと思っています。

山内 慶應義塾が今日に至る一貫教育の形を確立した125年前に福澤先生は、「学事改良の要領」という文章の中で、その課程の中で、「一種の気風を感受すべし」と言っています。そしてその塾風を解剖すれば、独立自由の精神と、もう1つが実際的精神、実学の精神からなるのだと語っています。

先生が、「感受すべし」と語った一種の気風とは何かということを問い続け、それに今日的な意味を常に見いだしていくことが、幼稚舎・横浜初等部から大学に至る慶應義塾の一貫教育を生き生きとしたものとして、これからもさらに発展させていくために大切だと思います。

その気風とは何かということを今日の座談会の中で考えることができたのではないかと思います。本日はどうも有り難うございました。

(2023年8月28日、三田キャンパスにて一部オンラインを交えて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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