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【特集:一貫教育確立125年】
菅沼安嬉子:慶應の一貫教育に育まれて

2023/10/06

  • 菅沼 安嬉子(すがぬま あきこ)

    慶應連合三田会長

三田育ち

私は昭和18年に三田で生まれました。戦争のため父が生まれ育った長野の伊那谷に疎開して4歳の時に三田に戻ってきました。父親は撞球の世界選手権で優勝し、戦前は京橋に大きな撞球場を持っていましたが、戦後は撞球などできる状況ではなくて、今の診療所のすぐ近くの場所で機械工具卸の会社をはじめました。三田通りの「つるの屋」が入っていた機械工具会館のビルは父が全国理事長だった時に建設しました。取り壊されるまで父の写真が飾ってありました。

小さな頃の三田の記憶では、家から第一京浜を通る車を数えていて、1時間に三輪トラックが3台だけだったのをよく覚えています。あとは自転車ばかりでした。

昔の三田キャンパスは守衛さんもいなくて、誰でも入れましたよ。私は一人っ子なので、よく犬を連れては山の上で遊んでいました。

両親が結婚して10年目に私が生まれたので、非常に大事にしてくれて、慶應なら中学、高校、大学と三田で、幼稚舎もバスで行けるというので幼稚舎を受験させたそうです。

幼稚舎で理科好きに

幸い幼稚舎に女子の3期生で入れていただけましたが、先生たちが女の子という扱いをしないんです。男の子と同じに見ていた。葉山の臨海学校の時とか、合宿所での寝泊りでは、女の先生は少ないので、川崎悟郎先生が横に寝ていて、「お前、寝相悪いな」と言われたり。

幼稚舎の担任は奥山貞男先生でした。奥山先生ご自身、女子がいるクラスを初めてお持ちになった。

入学したのは昭和25年で戦後すぐですから、親もゆとりがなくてつらかった。日曜日にあまり遊びに行けない子たちを希望者だけのハイキングや観察会によく連れて行ってくれました。理科が得意な先生で、自然のことをいろいろ説明してくれて理科が好きになりましたね。

奥山先生の家は幼稚舎の池があった裏のほうでした。当時、戦争で住む場所のなかった先生方が何人か住んでおられた。林先生と奥山先生ともう1人ぐらいいらしたかもしれません。私は登校時にはちゃんと幼稚舎の正門から入るのですけれど、帰りは奥山先生のところでちょっと道草をして、ほぼ裏門から帰っていました。

今みたいにプールもないですし、敷地を分断してしまった高速道路もなかったので、裏手の森は隠れるところもいっぱいありました。福澤先生の別荘だったのか、その森の一角に家の土台が残っていたのが印象的でしたね。

休み時間や放課後の遊びで言えばまず缶蹴りです。森の中でやりました。それから木で祠のようになっているところに入り込んで友達とおままごとをしたり、桑の実を食べたり。

ほかに幼稚舎時代の授業で印象深いのは永野房夫先生です。やはり理科の先生です。理科の部活があり、それに入りました。とても楽しかったです。授業の補習もしてくれたので、肥料は窒素、リン酸、カリと教わっていたから、それを先生が授業で質問した時に、私が「はい」と手を挙げて答えたんです。「あれはびっくりした」と、同級生に今でも言われています。

中等部へ進学

中等部は戦後すぐに女子を入れた共学の学校として始まって、私は10回生になります。ちょうど今の校舎(本館)ができた時に1年生になったのです。3年間ピカピカの新しいところで過ごしました。

幼稚舎の時はのんびりしていましたけど、中等部は外から生徒が入ってきます。それが1年生の1学期はものすごく怖く感じて、必死になって勉強しました。自分は何も知らず、外から入ってきた人は何でも知っているのではないかと。授業についていけるか、試験の点が取れるかと。でも、中間試験が終わったら、そうでもないとわかりました。

女子高に行ったら、やはり1学期間は怖かった。医学部に行ったら1年間怖かったです。やはり下から来た人は、受験勉強をしていないという引け目はある程度ある。

それが受験で来た人たちともだんだん混じり合って普通に付き合い出すわけですね。それまでは怖くて近寄れなかったけど、そのうち不思議なことに混ざり合ってしまう。

きっと向こうは、下から来た人は何でも慶應のことは知っていると思って同じように怖かったのかもしれません。でもそのうち、ああそうでもないのだとお互いに思い合う。そこが慶應のいいところでしょうね。

担任は1年と3年が吉中外喜先生で、2年生が河合喜三郎先生。どちらも数学でした。私は鶴亀算とかは苦手でしたが、中学の数学になったら、幾何が特に楽しくて、1本どこかに線を引くとあっという間に解決できるのが好きでしたね。

中等部で相川直樹君と同期で数学で競い合っていましてね。テストで私の方が良い点だと、悔しがってわざわざ言いに来る(笑)。中等部からは相川君と2人だけ医学部に行って、今でも戦友みたいな扱いをしてくれます。相川君は慶應病院の病院長になりました。

中等部で思い出深いのは演劇会です。仲井幸二郎先生という国語の先生が取り仕切っていらして、「君来なさい」という感じで、配役とか扱う題材も全部先生が決める。

相川君は常に主役。またマドンナみたいに可愛い人がいて、その人がいつもヒロインという感じ。私は結構裏方が多かったのですが、2年生の時は村娘の役でした。飢饉があって食べるものがなく庄屋の所に陳情に行くというストーリーだったのですが、その頃私は太っていたんですよ(笑)。どうしてこんなに太っているのが飢え死にしそうな役なのと自己嫌悪に陥り、次はもう絶対にキャストはやりませんと言ったら、3年生では監督をやらせてもらいました。

中等部で印象深かった先生は日本史の井口悦男先生です。記述のテストなのですが、最後によくできましたとか、字が汚いとか、いろいろなことを書いてくださる。赤い字で1行書いていただいただけですごく嬉しくなって、また褒められたいと思いました。後に私が女子高で保健を教えた時、やはりテストは一生懸命見て、最後に1行何か書こうと思いました。それは私の教師としての原点かなと思います。

部活では理化研究会に入っていました。怪しげなお菓子等を集めて来て、食品添加物とか着色料の分析をしました。若い魅力的な金子堅次郎先生が教えてくれました。

お菓子に色がたくさんつけられていた時代です。食品添加物が社会的にも問題になってきた頃で、秋の発表会では大きな紙に研究結果を書いて、来ていただいた父兄の方に一生懸命説明をしたことが忘れられません。その後ずっと食品の安全性の問題にかかわってきた原点は、中等部にありますね。

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