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【特集:一貫教育確立125年】
座談会:「同一の中の多様」が育む豊かな教育とは

2023/10/05

  • 那須 規子(なす のりこ)

    株式会社国際協力銀行常勤監査役

    塾員(1990法)。女子高等学校から慶應義塾で学ぶ。1990年日本輸出入銀行(現在の㈱国際協力銀行)入行。2010~14年ニューヨーク首席駐在員、17年執行役員を経て、22年より現職。

  • 斎藤 慶典(さいとう よしみち)

    慶應義塾大学名誉教授

    塾員(1980文、87文博)。博士(哲学)。中等部から慶應義塾で学ぶ。助教授を経て2001年より本塾大学文学部教授。07~12年本塾中等部長を務める。23年より名誉教授。専門は哲学。

  • 牛場 潤一(うしば じゅんいち)

    慶應義塾大学理工学部教授

    塾員(2001理工、04理工博)。博士(工学)。幼稚舎から慶應義塾で学ぶ。専任講師、准教授を経て、2022年より現職。専門は神経科学、医用工学。

  • 河野 文彦(こうの ふみひこ)

    慶應義塾志木高等学校教諭

    塾員(1987法、89文、96文修)。中等部から慶應義塾で学ぶ。1993年本塾志木高等学校教諭。2009~13年主事。2000年本塾ニューヨーク学院教諭を経て、15~19年同学院長を務める。

  • 山内 慶太(司会)(やまうち けいた)

    慶應義塾常任理事(一貫教育校担当)

    塾員(1991医)。博士(医学)。2005年より本塾大学看護医療学部・大学院健康マネジメント研究科教授。2008年から本塾横浜初等部開設準備室長を経て2013~15年横浜初等部長。21年より本塾常任理事。

慶應義塾との出会い

山内 今年は今に至る慶應義塾の一貫教育の仕組みが確立して125年という年になります。しかし、慶應義塾は草創の時から幅広い年代の塾生が混然一体となって学んでいて、その後、年齢に応じた仕組みを徐々に整えていったという経緯もあります。

創立以来の慶應義塾の歴史そのものが一貫教育の歴史ではありますが、今日は一貫教育の特色や意義について、それぞれの経験の中で考えてきたことを出し合って、確認したいと思います。

今日お集まりの方々は、一貫教育の課程のどの段階から入ったかもそれぞれですので、ご自身にとっての慶應義塾との出会いからお話しいただければと思います。

牛場 慶應との出会いは幼稚舎からになります。幼稚舎では、ケヤキの下や自尊館の裏を駆け回りながら育って、5年からはラグビー部に入って、夏休みの合宿では立科山荘で楕円のボールを追いかけました。

その後、普通部に行きました。私の普通部卒業時が湘南藤沢中・高等部の創立3年目で中学からの進学者がまだおらず、普通部や中等部から大勢入れる最後の年でした。当時、コンピュータと英語がすごく進んでいるというので、湘南藤沢高等部に行きました。

大学の進路はずいぶん迷いましたが、理工学部に進み、そのまま教員をやっています。

山内 中学段階から加わった方が斎藤さんと河野さんです。

斎藤 私の場合、中等部からということになります。それから塾高、大学の文学部、大学院文学研究科へ進みました。その後はいったん外へ出て8年ほど別の大学に勤め、それから、今から27年前、文学部の哲学専攻に戻り、今年の3月で定年を迎えました。

それとは別に、2つほど別の形でご縁がありました。1つは、大学学部の後半から大学院にかけての頃、中等部のクラブ活動の1つである器楽部の指導を任されたことです。都合8年ぐらい、コーチという資格で音楽のクラブを指導しました。

さらに、2007年から12年までの5年間、思いもかけず中等部長を務めさせていただきました。

河野 私は中等部に入学し、すぐ柔道部に入りました。実家が古くから柔術・柔道の道場を経営しており、将来は後を継ぐつもりでした。しかし、慶應から受けたカルチャーショックで、その考えがガラッと変わります。中学生になって初めて「自由」という言葉を知ったかのようでした。それまで躾が厳しかった家の生活が一挙に変わりました。

中等部3年間、その後、塾高でも柔道をやり、大学は法律学科に進みましたが、体育会で柔道を続け、学業のほうは留守がちでした。

大学柔道部での4年間が終わり、柔道ばかりでこれはちょっとまずい、今度は学業に専念しようと腹を決めて文学部中国文学専攻へ、そして大学院は国文学専攻に進みました。そのような中で、志木高に縁ができて大学院生のまま就職し、「半学半教」という慶應の特色に触れ、大変楽しく有意義な教師生活を始めました。

2000年から04年まで国語科教員としてニューヨーク学院に赴任しました。ちょうど10周年を迎えた学院の現場に立った時に初めて教育の原点と向き合ったような気がしました。親元を離れて寮生活をする生徒たちと昼夜、また教室の内外を問わず、ともに学び合う。まさに発育の現場でした。大いに影響を受け、鍛え直されました。

その後、志木高に戻りましたが、再び渡米し2015年から19年までニューヨーク学院長を務め、今はまた志木高に帰ってきております。

山内 高校から加わったのが那須さんです。

那須 私は慶應女子高から慶應というものに初めて触れ、その後は家族ぐるみで慶應が好きになりました。野球が好きだったこともあり、女子高ではソフトボール部で部活動に励みました。また、生徒会活動にも参加して生徒会長などを務めた経験もあります。

高校時代には留学というチャンスをもらいました。大学は法学部法律学科に進みましたが、ここでも塾の交換留学で留学させていただきました。お蔭で海外への関心が強くなり、海外と接点のある日本輸出入銀行、今の国際協力銀行に就職することになりました。

就職後は海外業務を続け、30年を超えました。パリのOECDに出向したり、2010年から14年はニューヨークに駐在して首席駐在員を務め、この時にはニューヨーク学院にかかわる機会を得ました。どこに行っても慶應を忘れることのない人生です。

「さん」づけの伝統

山内 河野さんは「カルチャーショック」とお話になりましたが、具体的にはどんなことでしたか。

河野 まず、中等部では伝統的に先生を「さん」づけで呼びなさいと言われます。教室には教壇がなく、先生は生徒と同じ目線で語ります。それがショックでした。また、中等部は校則がないと言われています。中等部生らしい行動をしなさい、と言うだけでした。お金も自分で管理しなさい、と言われたのも中学1年生にとっては大きなカルチャーショックでした。

山内 斎藤さんはいかがでしたか。

斎藤 私も中等部で慶應に入ってある種のカルチャーショック、こんなに違う世界があるのかとびっくりしました。中等部のどこが違っていたのか、私なりに整理してみますと、1つは生徒が先生を「さん」づけで呼ぶという習慣。これは本当に徹底していて、皆、例外なく先生を「さん」づけで呼びます。

慶應義塾は、もともと福澤先生以外は全部「君」で呼んでいたということがあります。中等部長の時、生徒に話したのですが、福澤の本意は、別に自分だけが先生と呼ばれたかったわけではない。自分も含めて全員が、学ぶということでは等しい立場にある。だから、なにも「先生」とことさらにつける必要はないという精神だと思います。

中等部の創設に大きくかかわられたのが、国文学者の池田彌三郎さんです。その彌三郎さんが自分なりに理解した慶應の塾風を、戦後新しく発足した中等部で生かすにあたって、お互いを「さん」づけで呼び合うという方針を徹底されたのではないか。

これはどういう狙いがあるかと言えば、ただ平等というだけでなく、教員が生徒を子ども扱いしないということだと思うのです。生徒は子どもだけど独立した人格の持ち主。この点で生徒も教員も一緒であって、その発展上に個人の自主性がある。そのようにして、1人ひとりを独立した人間として見てくれているということだと思います。

子どもはそのようなところに敏感なので、自分がそう扱われていると思うと、ちゃんとしなければ、と背筋が伸びるようなところがある。お互いが人間として同格で信頼でつながっているのであって、上下関係でつながっているのではないし、教える立場と教えられる立場でつながっているのでもない。このような考え方なのかと思います。

もう1つは「自由」ということです。河野さんが言われたように中等部は校則がないことになっています。申し合わせ事項みたいなものはありますが、そうしなければならないのではなく、場合によってはどうしてそうなのかと聞いたり、変えることもできるような非常に緩い扱いでした。

また、自由というのは、すごく難しいものです。自由だから何でも勝手にやりたいことをやっていいわけではなく、同時に自分のことに責任を持つことでもある。では、何をやってよくて、何をやってはいけないのかをどこで、どうやって決めるのか。それはまず本人が考えないといけない。考えた上で自分なりに行動や言葉で表してみる。すると、本人は自由だと思っていても、それは単なる手前勝手だ、と言われてしまうこともあります。

私は中等部の生徒によく話しましたが、われわれは喉が渇けば水を飲むし、おなかがすいたらご飯を食べる。これも自分の自由だと思いがちです。しかし、これは全然自由ではない。喉が渇いたら水を飲むのは、生き物として生きていくためにそうしなければいけないので、本能が水を飲めと命じているわけです。これは、本能によってそうさせられているという状態で、自由ではありません。

それだけではなく、われわれは社会生活を営む中で、自分が好きにやっていると思っていても、実は何かによってそうさせられている、ということは多くあります。巧妙なコマーシャルによって誘導されていることもあります。

すると、「自分は本当に自由なのか」ということが常に問われるべきで、最初から自由である、などということはないんですね。中学生であっても中学生なりに試行錯誤していく中で、自由とは人間にとってとても大事なことらしいけれど、同時にすごく難しいことなんだと、自分自身、朧げに感じたことをよく覚えています。

山内 子どもの頃から独立した個人として尊重されるということは、私も確かにそうだと思います。私自身も幼稚舎生の頃、担任の先生から呼び捨てで呼ばれたことは一度もありませんでした。みな、「君」づけ、「さん」づけで呼ばれ、常に丁寧な言葉で話されていました。また、授業の時の先生方の服装も、ネクタイにスーツ姿が当たり前でした。

「自由」については、これは中等部だけではなく慶應義塾のキーワードだと思うのです。幼稚舎時代は、自由の意味を考える機会は多く、福澤先生の「自由は不自由の中に在り」という言葉を使いながら先生が話して下さりました。あるいは、当時は、幼稚舎でも普通部でも、池田潔さんの『自由と規律』の一節をいろいろな先生が読んで下さりました。先生方にとっても、自由をどう捉え、どう伝えるかというのは常に大切な課題だったのだと思います。

女子高時代のカルチャーショック

山内 那須さんが女子高に入った時にはどんなことを感じましたか。

那須 私のカルチャーショックは2つの方面から来たように思います。1つは幼稚舎や中等部を経て上がってきた同級生たちです。女子高の入学生の過半数は外部からなので本来はマイノリティーのはずですが、入学式が終わってクラスに入った瞬間から圧倒的なオーラを出していました。

下から来た同級生たちは、これまで慶應の塾風を家族からも先生からも学んできていると思います。私の隣はたまたま幼稚舎からの内部生が座ったのですが、とても自然に声をかけてくれた。私はこれで一気に学校に馴染むことができました。それ以来ずっと彼女たちの持っている塾風のようなものを私も吸収してきたように思います。

もう1つのカルチャーショックは先生方です。今、お話があったように、先生方が生徒個人を子ども扱いせず、生徒と向き合い、1人ひとりの個性を見て丁寧に対応してくれた。これが驚きでもあり、有り難いことでした。

女子高では相手の生き方を互いに尊重するという考え方が養われてきたと私は思っています。何に打ち込んでいるのか、どういう人間なのかを学び、多様性を認めて、お互いをリスペクトできるのがいいところではないかと思っています。素晴らしい成果があった時は、心から賞賛するし、難しい挑戦をしている人には皆で応援するという文化がありました。

これは女子高に入った時に感じた新鮮なことでした。そのことを誰に教えてもらうわけではなく、先生方からの影響や、内部からの人たちがそのように育ってきたものを、お互いに重ね合わせたり、ぶつけたりした結果、相手のことを正当に尊重できるような関係ができたと思います。先生も試験の結果で優劣をあまり語りませんでしたし、私たちもそれがすごいという発想にならなかった。1人ひとりの人となりをお互いに見ながら関係性をつくっていったからだと思います。

これに関連して、私が生徒会長の時に作成したオリエンテーションの冊子の「先生方よりひとこと」のページに社会科の安川国雄先生が寄せて下さった言葉がとても印象的ですのでご紹介します。「この学校はあいにくなことに、入るのが大変難しい学校になってしまいました。しかし私たちは、そんなことを看板にしたくありません。諸君もまさか、それを以て誇りとするようなことはないでしょうね」。

こういうところが私にとって一番有り難く、大事に思っていた部分です。

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