三田評論ONLINE

【特集:一貫教育確立125年】
座談会:「同一の中の多様」が育む豊かな教育とは

2023/10/05

内部進学生が受けたカルチャーショック

山内 牛場さんは幼稚舎から進学される中で、いろいろな段階で新たな仲間が加わる面白さがあったかと思います。

牛場 幼稚舎から上がった私にとってもカルチャーショックはすごくありました。普通部に受験で入ってきた子たちは特に数学など、どうやったらあのレベルになるのだろうと思うくらいできる。この人たちは本当に同じ学年だろうかとショックを受けました。

受験勉強をきちんとしてきたので自己管理能力が高く、何となく過ごしてきた僕から見たら、すごく立派な大人が同級生になってしまったように思ったのです。自分もちゃんとやらねばと焦りました。そのようなショックは各段階の学校に上がるたびにありました。湘南藤沢高等部に入った時は帰国子女の人がとても多く、休み時間、英語でペラペラしゃべっている。また、価値観も欧米的な雰囲気で、全然違うカルチャーに驚かされました。

振り返ってみて、すごくいいショックをたくさんもらったと思っています。慶應の良さは、各段階で過半数が外部から入ってくることで、お互いにカルチャーショックを受けるところにあるのではないでしょうか。その中で1つのコミュニティをつくろうとお互いの違いを包摂し合ってワンチームになっていく。そのプロセスそのものが慶應の多様な、皆を受け止める素地になっているのではないかと思います。ここが僕の慶應の一番好きなところです。

山内 志木高は受験で入ってくる生徒が多いとはいえ塾内進学者もいます。河野さんは、この混じり合う部分をご覧になっていてお感じになるところはありますか。

河野 そこは教員としても一貫教育の醍醐味であると感じている部分で、われわれ教員も生徒たちから学んでいるところです。

塾内進学者の中には学業はそれほどでもないかもしれないが、スポーツ、友人関係等、学業以外の生活面に関しては、高校から入った生徒たちが塾内進学者に頼って学んでいるところがある。互いに学び合い、持ちつ持たれつ、卒業の時にはなかなか得難い信頼関係を構築しているのが現状です。

斎藤 一貫教育校は各段階で必ず新しい血が入ります。結果として、これがとてもいいのではないかと思うのです。

外から入った子から見れば、中の子たちの存在感に圧倒されることがあるかと思いますが、逆に中から上がった子から見ると、入学試験を突破した学力で言えば外から来た子たちのほうが圧倒的に高い。子どもたち同士はお互いに、自分と違うものを持った人がいることにびっくりするわけです。友人同士のリスペクトも、各段階で新しい血が混じることでより生まれやすくなっているような気がします。

外から入った生徒は、内部から来た人たちの、もともと持っている、試験では測れない才能に驚かされることがあります。これはちょっと勉強したから身につくというものではない。そういう才能に驚かされた経験が、私自身にもあります。そのように相手の才能や能力に対する敬意が自然に生まれてくる環境だった気がします。

「同一の中の多様」

山内 同じ慶應といっても学校ごとにそれぞれに個性もあります。各学校間で共通する部分と個性についてはどのように見ていらっしゃいますか。

河野 これについては「同一の中の多様」という言葉が浮かびます。どの学校も慶應のDNAを受け継いでいるといった誇り、自負に近いものを持っています。他方で、どの学校にもそれぞれの建学の精神というものがあり、それがその学校の個性になっているのだと思います。

例えば志木高は前身が農業高校で、いまだに文化祭は「収穫祭」、その始めには収穫式を行います。これは、全志木高生の見守る中で収穫祭実行委員長がキャンパスに実った柿をもいできて食べるという儀式です。こういうことは志木高生のアイデンティティーをつくっていると思います。

一方、ニューヨーク学院は文化が全く違います。学院では「先生には尊称をつけなさい、つけないことは先生に対してディスリスペクトな行為です。よく注意しなさい」と指導が行われます。

学院には、世界各地から様々な文化的背景を持った生徒がやってきます。生徒は、服装・食事・生活習慣など千差万別です。1万円札の肖像画を知らなかった生徒もいます。学習面ではレベル別の授業で対応しています。日本と違って学問的背景が異なる生徒を教えるのは根気のいることですが、こちらも文化的背景が様々な教員がよく生徒に付き合います。

新入生は、入学式前に入寮し、学院におけるマナーと学習方法を身につけます。その中にケイオウフィロソフィ&カルチャーというレクチャーがありました。彼らは、真の国際人であった福澤先生の生涯とその考え方を参考にして、異文化との付き合い方を学ぶのです。こうした学院生活に根差した福澤精神は多種多様な機会において応用され、文化の差を超えて学院生の心の拠り所となっています。

学院生が他の一貫教育校と全く違うのは、90%以上が寮生活をしていることで、寮生活の中で寝食を共にするところから発する、ルールを超え本音をぶつけ合う強靱な関係がルームメイトや教員との間にできあがります。本当に親しくなると互いにファーストネームで呼び合うようになり、尊称をつけなくてはならないなどということは乗り越え、寮生活に裏づけされた信頼関係の構築がなされるのです。

山内 以前、ニューヨーク学院を訪ねた時に、福澤研究会の活動に参加したことがあります。『学問のすゝめ』を輪読していたのですが、学院生達は様々な年代でアメリカに移って来た時の異文化体験等をもとに、「独立」を語り合っていました。国内の学校では余り聞けない議論の展開に、学院の貴重さを強く実感したことを思い出します。

牛場 私の場合、幼稚舎から普通部に上がる時に中等部か普通部かという選択があり、普通部に行きました。同級生が何人か中等部に行きましたが、彼らは都会のなかで男女共学で過ごしているので、高校で再会した時には、ずいぶんあか抜けた感じになっている気がしました。

高校は大勢が塾高に行きましたが、私はSFCに行って皆から離れ、大学で日吉に戻ってきて同級生に再会すると、風体も大人っぽくなって変わっていて、お互いに驚くわけです。

しかし、違う一貫教育校のカルチャーを身にまとって何となく雰囲気が違う感じはあるけれど、通底して慶應ボーイ、慶應ガールっぽいところがある。これは何かと考えると、先ほどからあるように、自分のことを人として見てくれている、人としての面白さに興味を持って会話をしてくれる、という姿勢が皆に共通していることに気付かされます。これが気持ちいいわけです。

一貫教育校の中で過ごしていると、「こいつ、すげえな」と思わず嘆息してしまうような、一芸に秀でた友達の存在や成長を目の当たりにして、僕は将来何になりたいのだろうと、はたと考えを巡らす瞬間がある。

そうした時に、「人としての面白さに興味を持ってくれる」仲間の存在によって、自分が大切にしたい人間らしさや生きることの豊かさとは何なのか、子どもなりの感性で考え始め、それを追求し始める子も多い。一見するとマニアック、ニッチなものでも、真剣に掘り下げて取り組んでいる様子を周りが認め、面白がるから、本人も気にせず打ち込める。

一貫教育校で学ぶ子たちは、このように共鳴しあいながら、人間らしさや豊かさを無意識に追いかけあっているように感じます。次第に人としての姿勢が似てくるというか。だから、久々に会ってもいつも同じ学舎に学ぶ仲間だなという感じがする。そこが安心感だったり、1つの仲間だという感覚につながっているのだと思います。

那須 私は自分が留学して外に出た時期がありましたので、離ればなれになっていた同級生が結構多いのです。でも、社会人になって会うと、一瞬で女子高時代に戻ってしまいます。

お互いに何の余計な説明もなく、すっと戻れる感じです。これは一緒に時間を過ごしてきて、価値観を共有している結果かと思います。今、コロナを機に女子高の時の友達と毎月、オンライン飲み会をやっていて、楽しくて、やめられなくなっています(笑)。

大学に進学してからは、留学で学年がずれたこともあり、友人の数では、大学から入学してきた友人の方が圧倒的に多くなりました。初めは、私が女子高に入った時と同じように、外部からの友人達からは、内部生というと特別な目で見られたことも確かですが、授業やサークル活動などを通じて、内部生といってもステレオタイプばかりではないとわかってもらえるようになり、早慶戦の応援などを通じて、自然と慶應に愛着を感じてもらえるようになっていったのを見て、嬉しく感じたことを思い出します。

共通の基盤を持つ安心感

山内 「同一の中の多様」というのは、各校は、共通する価値感があり、それに加えて歴史的な経緯によってそれぞれの時期にその時の問題意識と理想をもって創られたことから生じている。

生徒1人ひとりは、個性のある各学校の中で、しかし同時に「自由」を大切にする環境の中で自分の個性を育みます。そして中学、高校、大学と進学する各段階で、受験での入学者も含めて混じり合っていきます。そこで、先ほどカルチャーショックという話がありましたが、言わば化学反応が起こっていく、その機会を大切に思います。

その意味でも各校の個性は大切ですし、それぞれの学校で今も大事にされています。

斎藤 塾内各校の個性の違いはどこに由来するかというと、おっしゃたように、それぞれの学校の出自にかかわる部分が多いと思います。様々な歴史的な経緯が、その学校の個性を形づくっています。それぞれの学校がその意味ではいいライバルだと思います。

私はたまたま中等部に入りました。当時、慶應のもう1つの中学校だった普通部は長い伝統を背負い、慶應の中学と言えば普通部と言われていた。だから、同じ中学だけど、中等部のおまえに何ができるんだという目で見られ、だからこそ「見せてやるぞ」というようなライバル心が生じた。事あるごとに、スポーツでも中等部と普通部がいろいろな対抗戦をやりますが、お互いにライバルとして高め合ういいチャンスだったと思います。

基本的に慶應義塾全体が福澤に由来する「天は人の上に人を造らず」と言われる意味での平等と、個人の独立という意味での自由。この2つが基盤にあるということは、各学校一緒です。そのような共通の基盤を持っていることの安心感が、社会に出て同じ慶應義塾で学んだ人と出会った時、この人とは安心して話ができるという感じになるのではと思います。社会人になって初めて会った人同士でも、お互いに義塾出身だと知った途端に急に親しくなってしまうようなところがありますね。

そのような共通の基盤は一貫教育校だけではなく大学にまで共通する福澤精神で、互いの間のリスペクトという意味での自由・平等・友情といった関係が育まれているのではないかと思います。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事