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【特集:一貫教育確立125年】
大久保忠宗:一貫教育制度確立125年──一種の気風を感受すべし

2023/10/05

  • 大久保 忠宗(おおくぼ ただむね)

    慶應義塾普通部教諭

雲湧き、光溢れる甲子園で開かれたこの夏の高校野球全国大会、その栄冠は慶應義塾高等学校(以下塾高)野球部員の上に輝いた。107年ぶりの優勝。チームが勝ち進む中、アナウンサーが「慶應普通部として出場以来」「慶應の大応援団」と繰り返すようになったのが印象的だった。

ところで、これらの言葉には慶應義塾という集団の個性もよく反映されているように思われる。かつて普通部の名の下で打ち立てた野球の戦績を、今の塾高野球部が継承する背景には、幾多の変遷を経てきた義塾の歴史がある。また世の中が驚きの目を以て眺めた「大応援団」、それは140年以上前に福澤先生が指摘したこの学塾の特色、すなわち「命令する者なくして全体の挙動を一にし、奨励する者なくして衆員の喜憂を共に」するという「一種特別の気風」が、甲子園という一種特別な場で形になったもの、と見ても差し支えないだろう。

開塾以来の長く豊かな歴史と、その中で生まれ継承されてきた独自の気風とは、共に義塾の大きな特色をなすものである。そしてこの特色を考える上で、とくに重要な意味をもつのが、その独自の一貫教育の仕組みである。あたかも今年は一貫教育制度が確立した明治31(1898)年5月から数えて125年の節目にあたる。この機会に塾史を繙きながら、この私学の特色を考えてみたい。 

義塾が行う一貫教育の特色

いまの慶應義塾で「一貫教育」という場合、それはとくにその小学校から高校までの各学校に入学した児童・生徒・学生が、それぞれの校風・文化の中で学び、成長しながら進学を重ねて、最終的には大学・大学院で学問を修めて世に出るまでの、全体的な仕組みのことである。 

現在義塾には、国内に小学校2つ、中学校2つ、高等学校3つ、中高一貫教育の学校1つがあり、また海外にはニューヨーク学院(高等部)がある(図)。

慶應義塾の一貫教育

平成14(2002)年5月以来、義塾では、初等・中等教育段階の学校を「一貫教育校」の名で総称することにして、今日までこれを用いている。ただし、小・中・高のいずれかで入学した者にとって、その一貫教育の完成は高等教育を終える時点であり、大学や大学院が一貫教育の最終段階である。

いま日本には、就学前から初等・中等教育、高等教育まで複数の段階にまたがる「一貫教育」を行う学校が少なくない。これらと義塾のそれとはどう違うのだろうか。

慶應義塾の一貫教育の特色を語るとき、しばしば用いられるのは「同一の中の多様」という言葉である。

それを私は、次の4つの特色の全体として理解している。

第1に、義塾には男子校・女子校・共学校、中高一貫校、在外校など多様な学校があり、さらに大学が10学部、大学院は14研究科と、多くの選択肢が用意されていること、第2には、各学校の独立と自由がよく尊重され、いずれも独自の教育風土の中で、児童生徒の特性や発達段階に応じて、自らの方針で教育を行っていること、第3に、大学・大学院は学問教育の最終段階ではあるが、初等・中等教育段階の各校は大学の附属校や実験校ではなく、小学校から大学までが互いに相手を尊重していること、第4に、この学塾の全体が、根柢では独立自尊の語に集約される塾風を共にし、一体感をもって存在していること。

各校が自主自立しながらも、こんにち全体としての一体感を失わずに義塾流の教育を目指しているのは、歴史的な経緯と、各時代に行われてきたさまざまな努力との結果である。以下、その次第を順に記してみよう。

一貫教育制度の起源

慶應義塾が一貫教育の仕組みを確立したのは、前にも記す通り、明治31(1898)年5月のことである。

その手前で、義塾には幼稚舎、普通部、大学部などがすでに存在していた。しかし各々の独立性が強すぎて相互の連絡は悪かった。和田義郎の私塾を起源とする幼稚舎は、小学校から中学校にまたがる年齢・程度の学校であった。普通部は明治23(1890)年1月に大学部が発足する時、従来の課程をそのように総称したもので、29年からは中学校課程の普通科(5年)と初級専門課程の高等科(3年)に分かれ、両科を通して学ぶ者の修業年限を7年としていた。つまり、幼稚舎と本塾の普通部の課程は、中学段階で完全に重複していたのである。

普通部の上の課程である大学部(文学・理財・法律の3科)は3年制で、アメリカから主任教授を招き、多くの専門家を揃えて、私学では最高の水準を実現していた。しかし大学部の入学者数は伸びず、とくに普通部からの進学率は14%ほどと低調で、経営に苦慮していた。というのも当時は普通部と大学部のいずれを出ても義塾の卒業生として認められ、また大学部の入学期は1月だけなのに、普通部の卒業期は4月、7月、12月と年3回あった。これでは高い学費を要する大学部まで進む者が増えないのも道理である。大学部設立時に集めた資本金も少なくなり、20年代後半には、その存廃が議論されるようになった。

目を外に転ずれば、明治19(1886)年の学校令以来、国の教育の整備が大きく進んでいた。27年に誕生した旧制高校は帝国大学の予科を設置することが出来、それは塾生の獲得にも影響しかねないことであった。

こうした状況の中、義塾では明治30(1897)年8月以降、大学部の存廃問題と塾全体の経営問題を解決し、より優秀な人材を育てるため、社頭の福澤先生に塾務の総攬を乞い、全塾的にシステムを改めることにした。

この改革によってできたのが一貫教育の形である。具体的には、まず幼稚舎が6年制の小学校となった。次に普通部のうち、普通科を5年制の中学校課程に該当せしめて普通学科と改称し、また普通部の高等科と大学部を1つにまとめ新たに政治科も加えて5年制の大学科とした。そして以後は義塾の教育の本幹を幼稚舎・普通部・大学部に置き、大学部を出て初めて義塾の卒業生と認めることにしたのである(普通学科・大学科は32年に普通部・大学部と改称)。経営面では、30年8月に「慶應義塾基本金募集趣旨」を発表して財政基盤の強化を図る一方、複雑だった会計を一本化した。これらによって、以後大学部に進む塾生は増え、当面の危機を脱することが出来たのであった。なお、本誌『三田評論』の前身『慶應義塾学報』も、じつはこの改革の時、義塾の主義と精神を広く知らせ、関係者との連絡を密接にするために誕生した機関誌である。

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