三田評論ONLINE

【特集:一貫教育確立125年】
大久保忠宗:一貫教育制度確立125年──一種の気風を感受すべし

2023/10/05

一貫教育と塾風

幼稚舎から大学部までを「聯結一貫」(『慶應義塾便覧』)せしめたことで義塾の教育の形は大きく変わった。しかしこの新しい制度は、他方で義塾の教育を継承する仕組みとしても企図されていたことを忘れてはならない。

改革の基本方針が定まった明治30(1897)年9月18日、福澤先生は演説館に教職員塾生を集めて方針を発表し、そこでこの聯結一貫の意義を次のように説いた。

即(すなわ)ち満六歳にして幼稚舎に入り、二十二歳にして塾窓(じゅくそう)を出(い)づる勘定にして、其(その)卒業生は学問に於(おい)て敢(あえ)て他の学生に譲らざるのみか、十六年の苦学中には一種の気風を感受す可(べ)し。即ち慶應義塾風にして、其塾風の人に有用なるや否(いな)やは兎も角も、之(これ)を解剖すれば即ち独立自由にして而(しか)も実際的精神より成るを発見す可し。是(こ)れ義塾の特色にして、他に異なる所は主として此(ここ)に存(そん)するものなり。(「慶應義塾学事改良の要領」)

最長で16年の間義塾に身を置くうち、塾生は学問のみならず、独立自由と実際的な実学の精神から成る独特の気風をその身に受け取ることが出来る。この気風こそが義塾が他と異なる特色なのだ──これが先生の説明である。

独立自由の精神と科学的・合理的な思考を重んずる実学の精神、またそれらの躬行実践は、いずれも福澤先生と義塾が一貫してその必要を説いてきたものである。しかしその先生も、数えで65になっていた。

「気品の泉源智徳の模範」で知られる演説が行われたのはその前年、明治29年11月のことで、先生は集まった塾の出身者を前に、義塾固有の気風品格・・・・(気品)を維持して伝えるのは我々の責任だが、果たしてその責任を全う出来るかを思うと、世の中の進歩を喜ぶ反面「無限の苦痛」がある、と心中を明かした。そして「慶應義塾の目的」の言葉を述べ、これを恰(あたか)も遺言の如くにして諸君に嘱託すると結んだのである。先生は、気品とは元来無形のもので「充満する空気」のようなものだ、とも言っている。その気品を長い塾生生活の中で感受し、よく継承して欲しい、これが一貫教育に込められた先生の願いであった。

戦前の努力と戦後の自覚

興味深いのは、この願いに応えるかのような動きがすぐに塾生から起きたことである。31年の秋、塾生中の有志者が「慶應義塾学制自治規約」を制定し、塾風改良の運動を始めたのがそれである。片や福澤先生は、義塾を気品の泉源智徳の模範とするだけでなく、さらに「全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて、真実文明の名に恥ずかしくないように」したいとも考えていた(『福翁自伝』、31年5月脱稿)。そこで小幡篤次郎(おばたとくじろう)らに委嘱して、今の世に義塾が示すべき道徳綱領を編纂せしめた。それが33年2月に発表された「修身要領」である。「独立自尊」の4字を全体を貫く標語とし、先生平素の言行を基にして29条にまとめたこのモラル・コードは、34年2月に先生が亡くなった後も長く社中の道徳的な規準、また塾の気風を継承するための重要な拠り所となった。

その後、慶應義塾は戦争と戦災の影響、さらに戦後は六三三四制への転換や中学の義務教育化、男女共学化の動きなどで、教育の形と内容とを大きく変えることとなる。

普通部は昭和22(1947)年から3年制男子中学に転換し、同じ年には男女共学の中等部も開設された。翌年には幼稚舎が男女共学となり、高等学校(手続き上は普通部・商工学校から転換、発足時は第一・第二高等学校、24年両校併合の上改称)と志木高等学校(発足時は農業高等学校、32年普通高校に転換改称)が開校した。さらに24年に新制の大学が発足、25年には初の女子校として女子高等学校が開かれ、塾監局も大きく職制を改めた。

ところで、我々が普通に使う「一貫教育」という言葉が塾内で広く用いられるようになるのは、じつは戦後になってのことである。明治後半から昭和34(1959)年まで刊行された義塾の年鑑『慶應義塾総覧』を繙くと、意外にも旧制時代のものに一貫教育の語は見えない。それが登場するのは、戦後最初となる26年版の「小学より大学に至る此の一貫教育は独り本塾の誇りとするところであるが」という記述からで、しかも次の昭和29年版では学校の概観を紹介する中に「一貫教育について」の一文を置いて、この仕組みを義塾の教育上の特色として力説するに至っている。義塾の教育の在り方についてはすでに戦争中小泉信三塾長の下で調査研究が行われており、一貫教育の語も唐突なものではなかったのかも知れない。ただ、戦後の教育改革が進む中、義塾では多くの学校・課程を新設する一方、不変固有の主義を貫く努力をしていた。その時期にあって「一貫教育」の語が、主体的に教育を行うための標語として塾内に広く共有されたのは確かだと思う。

「研究・教育委員会」の大きな果実

昭和33(1858)年の創立100年を大きな弾みとして、義塾は施設・設備の拡充に尽力した。また戦後は塾生数も大幅に増加した。昭和7、8年頃の塾生は1万人余りだったが、昭和40年前後には大学の通信教育課程などまで含めれば4万人ほどになっていた。さらに高度経済成長期には、世の中も教育・研究の内容も大きく変化した。

このような中、義塾では全塾規模の委員会を作り、教育研究の実状を分析した上で将来を見据えた自己評価をするという、思い切ったことを行った。それは永澤邦男塾長時代の昭和40年から43年のことで、義塾の特色、問題点と方向がここでかなり共有されることとなった。

一貫教育の歴史上重要なのは、この「研究・教育計画委員会」が、義塾の一貫教育の在り方について徹底した分析と議論を行い、今も顧みるべき内容を多く含む答申にまとめたことである。まず第一部会の答申「義塾の研究と教育に関する基本理念」は、塾の進むべき方向を10項目に整理したその10番目を「一貫教育の利点を発揮し、良い塾風形成の中核とすべきである」とした。さらに義塾の教育体制を議論した第4部会の答申は「近い将来および100年の将来にわたって〈あるべき〉慶應義塾の教育体制について検討」した結果を、次のように説き起こしたのである。

慶應義塾の教育面における存在理由は、その一貫教育と塾風にある。すなわち、塾風のもとに行われる一貫教育にこそ、慶應義塾の独自性があり、この独自性を効果的に発揮させるところに、慶應義塾の存在意義があるといえよう。(第4部会答申「はじめに」)

そしてこの前提の下に一貫教育の長所と短所とを示し、大学と高校以下諸学校とに分けて、塾風の浸透策、各種弊害の是正策、環境改善策、適正規模の検討から入試制度・推薦制度の改善策などまでを詳細に論じたのであった。

この委員会答申は今日まで多くの影響を及ぼしている。とくに当時常任理事だった石川忠雄は後年塾長となり、義塾建学の理念と独特の塾風、その一貫教育にこの学塾の存在意義があるという立場を継承して、それらの大切さを説き続けた。また昭和61(1986)年の年頭挨拶では、戦後は大学の塾内出身者の割合が2割程度まで低下している現状を述べて、これをさらに低下させるわけにはいかないと言い、「私学というものは、いろいろな資質を持った人々が集まって、その学校独特の気風の中で、お互いに影響を与え合い、学問をし、人間形成をしていくということが、最も適当な姿である」、多様な入口から多様な資質を持った学生が入ることが必要だと説いて、小学校から高等学校までもう一系列の学校を創る考えを示した。この一貫教育校の役割への積極的評価が、平成2(1990)年のニューヨーク学院(高等部)開設、同4年の湘南藤沢中等部・高等部開設に結実したのは明らかである。

さらに平成19(2007)年、安西祐一郎塾長時代に一貫教育を再点検した「これからの一貫教育」諮問委員会の答申も、新たな論点を多く加える一方、「研究・教育計画委員会」の答申を多分に意識し踏まえたものだった。そしてこれを土台に構想されたのが、今年開校10周年を迎えた横浜初等部である。最も若い同校は、新しい教育と共に義塾建学の理念や一貫教育の意義を説いてやまぬが、そこには、この特色ある義塾の歴史を我々も担うのだという自負心が窺われる。

義塾は一瞥して分かる表面的な姿より深い所に、独自の気風、そしてそれを伝える豊かな歴史と言葉、教育の形をもっている。これらを大切に、次の時代を創ってゆこう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事