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【特集:本と出合う】
津田眞弓:江戸の出版事情 入門

2023/08/07

江戸の印刷技術

江戸時代に流通していた本は、必ずしも印刷されたものだけでない。手で書いた方が立派という意識が雅文芸には強かったし、貸本屋にも手で写した本が沢山あり、注文に応じて本の字を写す商売も成立していた。江戸時代の本は、こうした写本や貸本の文化も視野に入れなければならない。しかし、一度に大量にコピーを生産できる印刷が、江戸時代に商業出版を発展させ、それより前の時代と本の享受に大変革が起きたことは間違いない。この印刷技術も市場の動向によって変化し、新しい需要に応えた商品が誕生するので、以下に概要を示そう。

17世紀 印刷そのものは寺院を中心に古くからなされていたが、戦国末期に日本にもたらされた朝鮮半島・キリシタンの金属活字印刷技術が大きな影響を及ぼし、天皇・徳川家から民間に至るまで、銅や木の活字を使った出版が試みられる。技術後進国の日本は金属活字の鋳造が未熟で、木活字が広く利用された。近代の活字に比して、「古活字版(こかつじばん)」と呼ばれる時代である。

この古活字版は未詳な部分が多いものの、東洋・西洋由来の影が見え隠れし、最終的に日本では木活字を周囲から締めて固定して印刷する形が定着した。東洋の本には本文の周囲を囲う線「匡郭(きょうかく)」があるが、この方式で作ると、縦と横の線が完全に密着しない。周囲の角にすき間があると、この古い(高い)古活字版だとわかる。

一方、和文の手書き文字にこだわったのが、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・角倉素庵(すみのくらそあん)ら嵯峨本(さがぼん)とよばれる美しい一群の書。一般に読むことがかなわなかった古典文学の全文提供をした先駆けである。同時に、例えば『伊勢物語』など、そこに盛り込まれた挿絵が、手書きの絵巻、絵本の手本として使われた。

そして読者の増加に伴い、17世紀中葉には印刷が木版による整版印刷に切り替わる。古活字版は数丁印刷する度にばらすので、増刷時に再度活字を組まねばならず、摩耗した頻出する活字は奇麗な印刷を損ね、文字によって濃淡が生じることが多くなる。一方版木を彫るのは制作費用が高いが、一度に版が耐えうる印刷枚数も増え、何度も増刷が可能で、版木そのものも版元の財産となる。また紙面を自由に使えるから、漢文の訓点、ルビ、漢字ひらがなまじりの連綿体と、日本の文章にも適していた。

こうして整版印刷へ切り替わると、新しい商品が生まれていく。17世紀後半に作られた東海道の絵地図類が1つの象徴だろうか。刊行年が判然としない『諸国安見回文之絵図(しょこくあんけんかいぶんのえず)』は先行する文字だけの道中案内の文章に絵を配した画期的なものとされる。『道中記集成』を作った今井金吾によれば、浮世絵の大家鈴木重三の見立ては絵師を菱川師宣だとする。この師宣は、絵地図の先駆けといわれる1690年刊『東海道分間絵図(とうかいどうぶんけんえず)』の絵も担当した。遠近道印(おちこちどういん)が作ったこの絵図は、京都から江戸までの道中を方角や縮尺にも気を配って制作されたもので、巻物をジグザグに折った「折り本」の形で提供されている。整版ならではの本である。こうして、江戸時代の多くの本には、ジャンルに関係なく、多く絵が入るようになる。

また、この師宣が祖とされる浮世絵には肉筆画(手描き)と版画があるが、後者の版画が江戸で手軽な本を売る草紙屋の人気の商品になっていく。京都には手で絵を描く絵師がたくさんいたが、新興都市江戸では不足していたからだ。江戸へは全国から武士も町人も沢山の男達が仕事にやってきたから、安価で目を楽しませる絵は喜ばれた。

18世紀 整版印刷への移行以後は大きな印刷技術の変化はないが、彫る・摺る職人の技術が格段に上がっていく。18世紀でめざましいのは、カラー革命ともいうべき「錦絵(にしきえ)」の誕生だろう。浮世絵は当初手彩色で色を付け、やがて僅かな色を重ねて印刷するようにはなっていたが、錦絵は1765年に鈴木春信が依頼を受けて、何色も重ねた華やかな色彩の「絵暦(えごよみ)」(陰暦の大の月だけを絵の中に示すカレンダー)として作ったのが始まりだという。これは市販されたものではなく、旗本の巨川(きょせん)(大久保甚四郎)がパトロンとなって、絵暦交換会を行う中で技術が磨かれた。このように制作費を厭わない私家版の浮世絵で技術革新が培われ、一般売りにと広まっていく。技術をもった職人を差配する本屋は、様々な遊芸の場で作られる本や「摺物(すりもの)」(1枚刷り)の出版を請け負ったはずだが、私家版の場合、本や浮世絵に請け負った人物の名前がでないので、その実態は未詳である。

なお、1782年時の出版事情を擬人化した本で示した北尾政演(まさのぶ)『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』では、錦絵を、吉原の最高級の遊女に擬える。その誕生から20年弱、「江戸絵(えどえ)」とよばれ、江戸を代表する土産物になっていた。浮世絵の歴史は、経済学史の教授らしい高橋誠一郎先生のコレクションで眺めることができる。

「高橋コレクションで巡る浮世絵の歴史」

19世紀 1850年代後半に、近代活字の魁が蘭学者周辺で始まるが、その一方、木版印刷の技術はこの時期最高潮を迎える。一段と技術のさえを見せるのは、天保改革の出版統制(1842年)のその後だ。幕府はカラフルな錦絵が使われていた草双紙の表紙に目を付け、倹約令の一環として、価格の高騰を招くと表紙の彩色を禁止した。その際、江戸の本屋は、墨色の濃淡を何色も重ね、とても美しい表紙を作った。中には空摺(からずり)(絵の具をつけない凹凸の模様)を加え、彫りと摺りの技術が目にも鮮やかな美本もある。その後、この天保改革が短命に終わると、たがが外れたように、表紙・口絵の料紙をより高いものに変更し、美々しい手の込んだ本を作る。

なお、1847年のウィーンの王立印刷所で、かつてシーボルトが皇帝に献上した本の1冊をくずし字の金属活字と銅板で模刻している(国会図書館蔵 ウィーン版『浮世形六枚屏風』)。それは最も難しいと思われる草双紙、柳亭種彦作・歌川国貞画『浮世形六枚屏風(うきよがたろくまいびょうぶ)』(1821年刊)。驚愕すべき熱意だが、髪の生え際など銅版画より線が細かいのが、底本となった木版である(国会図書館蔵 江戸版『浮世形六枚屏風』)。

江戸の出版を考えるために

江戸時代の商品としての本は、社会の動向と、幕府の方針に大きく影響されるから、時々の政治・経済・思潮を映す鏡である。この変化を念頭に置くと、その本のありようが理解しやすい。

17世紀は啓蒙の時代。徳川の新しい時代に人々が生きるための様々な情報を求めた。特に本によってこれまで秘伝とされた知識が公開されたのは特筆すべきことだろう。中味が公開されれば、これに注釈がつき、要約される。この世紀末には様々な知を集約する百科全書的な本が作られ始める。

18世紀は学問と戯作の時代。享保の改革で学問が奨励され、禁止されていた蘭学も含め学問の書が盛んに出版される一方、学問をする人々が、その知識をふんだんに使った戯作(たわむれに作る)を作り始める。特に18世紀の中葉、江戸の出版が上方を凌駕しはじめた頃、鬼才平賀源内に憧れる人々が本というメディアを仲間と共に大いに楽しみ、その試みが商品としての本の世界を牽引していく。

19世紀は商業の時代。寛政の改革で、武士階級が出版される戯作から撤退し、娯楽的な本は商業的な書き手を使ってより商業的に制作される。江戸だけで売られていた本が、上方へ、全国へ販路を広げていく。また寛政の改革の成果として庶民教化が進み、想定される読者に一般女性が加わるのも、この時期である。例えば、料理書は17世紀にはプロの専門家(男性)に向けて作られていたが、この世紀に至りようやく一般家庭向けが意識される。

最後に。江戸の出版事情として一番考慮しなければならないことは、幕府の出版統制である。広く販売・読書される本(印刷、手書きにかかわらず)は、規制の対象となり、享保改革以後、幕府に公認された株仲間は、その禁令に違反がないかを検閲する組織にもなった。

その後の出版規制の祖法となるのが、1722年、享保改革の時のものである。具体的には、①社会的常識になっている事柄について猥(みだ)りなる異説を公刊しない。②好色本は絶版。③人の家筋・先祖について間違ったことを書かない(争いの原因を作るな)。④制作者の名前を明記する。⑤権現様(家康)・御当家(徳川)への言及は無用。──以上を守り、かつ検閲をうけること。

これを基本に、寛政・天保改革には倹約令の文言も加わり、検閲組織を含め次第に強化されていく。特に⑤の意味する時事の政治的話柄は、例えば海防について重要な提言をした林子平の『海国兵談(かいこくへいだん)』(1791年)も、田沼意次の失脚を茶化し、松平定信の登場を喜ぶ草双紙類も、1806、7年のロシア人による蝦夷襲撃(文化露寇)を、日本軍の大勝利に書き換えた南豊(なんぽう)『北海異談(ほっかいいだん)』(手書きの「実録体小説」、1808年)も、処罰を受けた。徳川に利そうとも、御当家に関わることは言及してはいけないのである。

この禁令を念頭におかないと誤読の恐れがある。例えば、天保改革直後に、古典文学を材料にした浮世絵が制作されたのだが、単純に古典の絵解きと読むのはとても危うい。何故ならば、天保改革で浮世絵と草双紙に、それまでのドル箱の画題であった歌舞伎役者・遊女・女芸者が禁止され、代わりの美人画として制作したものだからだ。三代歌川豊国(初代国貞)「百人一首絵抄」は、取締の厳しい改革直後はまじめな解説風を装うが、次第にこの人が描いた天保改革で絶版になった柳亭種彦作『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』のアイコン「源氏香」があしらわれ、同書の世界が濃厚になっていく。また三代代豊国「今源氏錦絵合」、弟子の二代国貞「紫式部源氏かるた」など、源氏物語を匂わす題に江戸時代の御殿女中が描かれていたら、それはほぼ間違いなく、源氏物語・応仁の乱・当代の江戸が三重写しになっている『偐紫田舎源氏』由来の世界である。人形浄瑠璃や歌舞伎がそうであるように、禁制を鑑み徳川時代の話を他の時代に擬えることが多く、江戸時代の商業的作品は、こうした江戸時代固有の物語の作法も理解しつつ、時々の規制や、同時代の流行を確認しつつ読まないと、大いなる誤読の落とし穴に陥ることになる。

なお、『偐紫田舎源氏』の絶版の理由は長らく未詳であったが、近年、佐藤悟氏の高解像度の顕微鏡を使った調査で、1つの光が見えてきた。倹約令の中、抜群の高級紙を使っていたのだ。文理融合の研究の成果の1つである。

補講として、江戸時代の本の文字を読むこと、近年盛んなくずし字をAIに読ませることなどについて述べた動画のリンクを置く(「古典籍・くずし字」)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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