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【特集:本と出合う】
杉江松恋:書評家はどれだけの本を読めばいいのか

2023/08/08

  • 杉江 松恋(すぎえ まつこい)

    書評家・塾員

たくさん本を読むんでしょう。

そう聞かれるのが実は苦手である。量を誇ることは、読書の質を落とす行為と同義に聞こえてしまうからだ。ページをぱらぱらとめくっただけでも、一連の動作をもって読んだ、と言い張ることはできる。内容の理解が伴わなくとも。

急いで付け加えるのだが、量を読むことも書評家は大事だ。広瀬和生は『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)でこう書いている。

「例えば、エラリー・クイーンやアガサ・クリスティの生きた時代の推理小説全般には造詣が深いが、近年の作家によるミステリーはあまり読まず、特に日本の作家はほとんど読んだことがない、というような人物が、東野圭吾の数ある作品の中から「たまたま読んだ一冊」を論評したとする。「そういう人物の目にその作品がどう映ったか」という意味では興味深いが、書評としての正確さには欠けると言わざるを得ないだろう」

広瀬の言う「たまたま書評」にも存在意義があると思う。だが、ほぼ同意である。私がいい書評について問われたとき、必ず答えるのが丸谷才一定義で、「内容紹介」「読むに価するかどうかの判断」「文章の魅力」の順に大事だという(『ロンドンで本を読む』マガジンハウス)。「たまたま書評」はこの2番目が駄目なのだ。その手の本をあまり手に取ったことがない人の判断を読者は必要とするだろうか。否である。

書評家にとって最も大事なのは読者から信頼されることだろう。この人のお薦めなら読んでもいい、というお墨付きを得ることが、書評家にとって唯一の免状である。少しもいいと思っていない本をわずかな金のために褒めるような提灯書評が論外なのは、この信頼感を裏切るからだ。せっせと読むという経験を積み上げていく以外に信頼を勝ち取る道はない。ということは量は重要なのである。書評家なら読めるだけ読め。

と言いながらさらに付け加えるのだが、それでも量を誇ることへの抵抗が私にはある。慶應義塾大学文学部の指導教員だった故・大淵英雄から突き付けられた一言が忘れられないからだ。

あれは3年次のときだったと思う。大淵の書棚から学生には高くて買えない本を借り出した私は、早く返さなければという思いから集中して読んだ。忘れもしない網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店)である。それこそ電車移動の最中にも手放さず、自分としては驚異的な速さで読んだ。その代償としてかなりぼろぼろになってしまった網野書を返却した私に、大淵英雄は言ったのである。

「電車の中で慌ただしく本を読むしかない生活の貧しさを知りなさい」

仕方ないじゃないか、時間がなかったんだから、と当時は思ったが、今となっては真意がよくわかる。読めばいいわけではないのだ。じっくりと向き合わなければならない読書というものもある。だから今も、私は基本的に外出中はあまり本を読めない。基本は机に向かって読む。

抽象的な表現になるが、本と向き合う態度の誠実さなのだと思う。回り回ってそういう結論に到達した。それは書評家としても実践していることである。結論を先に決めて読まない。私の得意分野は大衆文学の中でもミステリーである。その中に「本格ミステリー」という呼称がある。謎解きの論理性を主たる関心とするものを指すサブジャンルだが、私はこの「本格」という呼称を使わない。本格があればそうではないものもあるわけで、読む前からレッテル貼りをしているような気がするからである。これに限らず、ジャンル内でのみ通用する概念は可能な限り排し、可能な限り一般文学に近い視点から作品に当たることにしている。

内容本位で読み、周辺情報で判断しない。たとえば作者がこの人だからこういうことを書いたのだろう、という解釈をしない。それは先入観に導かれた結論だからだ。主題に囚われない。作品によっては、先端的な社会問題が扱われていることがある。それは作者にとって重要なものであろう。書くことに意義を見いだしているのかもしれない。だが、その主題が扱われていることと、小説としての価値は別なのである。あくまで小説としてどうなのかということだけで判断し、他の要素では作品を評価しない。私に可能な精一杯の誠実さとはそういうことである。

ある時期まで、読者に対する誠実さを保つためには自分はミステリーというジャンルの中だけで活動すべきだと思い、実践してきた。最近になって考えを変え、隣接領域について知らずにそのジャンルを正当に評価できるだろうかと考え、読む本の領域を一気に拡大した。おかげで今は、かなりの本を読まなければならなくなっている。

でも、たくさん読むんでしょう、とは聞かないでもらいたいのである。そうは読みません、読めるだけの本しか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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