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【特集:本と出合う】
原田範行:書物はいかにして読まれるようになっていったのか──出版文化史の見地から

2023/08/07

  • 原田 範行(はらだ のりゆき)

    慶應義塾大学文学部教授

書物は、何世紀にもわたって、人間の知性や文化、あるいは表現行為を具体的に体現するものとして、人類とともに歩んできた。その書物の様態が、今日、デジタルコンテンツの急速な普及や生成AIによる知的文化的生産活動そのものの質的転換の中にあって、大きく変容する可能性がある。本稿では、書物が人間と取り結んだ歴史の諸相、すなわち書物はいかにして読まれるようになっていったのか、ということを出版文化史の見地から確認しつつ、人間1人1人の個性の発現を担保するという意味での書物の重要性を改めて指摘し、今後の書物のゆくえを考察してみたい。

書物がそこにあること

『ジェイン・エア』(1847)という小説がある。ブロンテ姉妹の1人として知られる19世紀イギリスの作家シャーロット・ブロンテの自伝的傑作で、テレビや映画でもおなじみの作品である。ヒロインのジェインは、幼い頃に両親と死別し、義理の伯母リード夫人のもとで育てられる。唯一の楽しみといえば、部屋の片隅にある出窓に隠れて本を読むことであった。彼女の愛読書の1つは『ガリヴァー旅行記』であり、ジェインはしばしば、小人国や大人国といった奇想天外なファンタジーの中に身を置くのであった。 

作品の冒頭からこのように読書するヒロインにとって重要なことは、まずはそこに書物がある、ということ。19世紀半ばの小説だからこうした場面設定が可能なのだが、これが、同じイギリスでも1世紀ほど遡ると話はそううまくは行かない。読書という彼女の行為にも重要な意味がある。ジェインは、自分に冷たくあたるリード夫人や従兄姉たちと顔を合わせないようにしつつ、読書によって、辛い現実の縛りから自らの想像力を解き放とうとする。彼女にとって書物は、そして読書行為は、閉塞的な日常を離れ、自らの個性を存分に主張できる場なのであった。書物は、読者が自分の世界を安心して構築できる場でもある。例えば端末を通じて読書内容が瞬く間に周囲と共有されてしまうようでは、彼女の豊かな想像力は育まれない。

ここで急いで付け加えなければならないのは、屋敷の中に『ガリヴァー旅行記』が複数所蔵されていてジェインが自分だけの1冊を持っていたわけではない、ということだ。それどころか、ジェインの読んでいたものは、もともと従兄のためのものであった。多くは見向きもしないのに、彼女にとっては何ものにも代えがたいもの、それが『ガリヴァー旅行記』という1冊の書物なのであった。リード家の半数の人々が1冊ずつ『ガリヴァー旅行記』を購入するようでないと出版が経済的に成り立たない、というような状況では、ジェインがこの書物と出会うことはまずなかったと言ってよい。

出版文化の民主化と読者の分裂

書物がいつでもそこにある、という環境は、しかし、それほど昔から存在していたわけではない。今日でも、そういう環境にない地域は世界各地にある。宗教の教義や秘儀を収めた書物は、ごく限られた部数のみが制作され、転写さえ禁じられることが少なくなかった。それでも例えばヨーロッパの場合、中世も後半になると各種の重要文書が写本の形である程度広まることになるが、そうした写本を所有することは、人間社会にとって重要な知識や学問を専有する権威の象徴ともなっていた。今日わが国では一般に「文学」と訳される英語のLiterature は、もともとラテン語のLitterātūraに発するもので、その意味は「書き記されたもの」であった。ヨーロッパでは、紙の素材がパピルスから羊皮紙へと推移するが、そもそもその素材自体が貴重なものであったから、「書き記されたもの」、そしてそれを収める書物の重要性は高かった。中世後期から近代初期にかけて、Literatureは、いわゆる「文学」ではなく、「書物」「学問」「学芸」全般を意味する語として使われていたのである。

もちろん、12世紀半ばに植物から紙を作る製法が中国からヨーロッパへ伝えられ、15世紀半ばにはドイツのグーテンベルクが活版印刷術を考案するに及んで、こうした事情には少しずつ変化が生じてくる(紙と製紙技術をめぐっては以下の慶應義塾大学FutureLearnが有用)。イギリスでは17世紀初頭に大規模な出版が相次いだ。国王ジェイムズ1世が主導したいわゆる欽定訳聖書(1611)や、劇作家ウィリアム・シェイクスピアのフォリオ版戯曲集(1623)である。ただ、一方では紙の供給が安定して活版印刷が経済的に自立し、他方では、そうしたモノを必要とする本格的な書きものによる情報共有が社会における喫緊の課題となっていくのは、概ね18世紀を迎える頃であった。現代に至る一般的な散文、すなわち日常会話を基本にした書き言葉が整備され、それによって、ジャーナリズムのような書きものによる情報の共有と発信が発達したのもこの時期である。イギリスのサミュエル・ジョンソンが英語散文の確立に大きな役割を果たした『英語辞典』をパトロンに頼らずに出版したのが1755年、フランスのディドロとダランベールが監修した『百科全書』は1751年から80年にかけて刊行されている。宗教も知識も学問も文芸も、少なくともヨーロッパではこの時期になって、ようやく民主化されてきたのである。この動きは19世紀に入って加速する。参政権が徐々に拡大し、その中で、社会の動きに関わるさまざまな情報が共有されたり検証されたりするためにも、そしてまた個々の人間の想像力と創造力を涵養するといった目的のためにも、書物が大いに必要とされたのである。かくして、ジェインのように不遇をかこつヒロインの前にも、書物がそこにある、という環境が整っていく。

だが、出版文化の民主化へのこうした動きは、やがて読者層の分裂といった事態をも引き起こした、という点には留意する必要がある。近代に入って大きな読者層を獲得した散文フィクション、すなわち小説についても、例えばイギリスの場合、19世紀半ばのチャールズ・ディケンズやジョージ・エリオット、そしてブロンテ姉妹の時期を境にして、読者層に大きな乖離が生じてくる。文学史家が、「読者の大衆化と知的・文学的成功とは必ずしも共存しない」とする現象である( 引用はRonald Carter and John McRae, The Penguin Guide to Literature in English(1996), p. 170を参照)。『ガリヴァー旅行記』を読むジェインの優れた知性や感性は、たとえリード家の中では1人であったとしても、書物を通じて社会的に共有されるものであったのだが、出版文化の発達は、そうした書物文化の一体性を弱めて多様化していくことになる。いわば、ジェインの愛した書物の世界に、リード夫人や従兄姉たちを楽しませるようなコンテンツが入り込み、むしろ後者が前者を圧迫するような状況が生まれたのである。多様性が生まれることと、それが再び失われて行く過程とは、実は近接しているのだ。

実際、こうした出版文化の民主化と書物の多様化、そして多様化に伴う文化そのものの解体の危険性は、活版印刷が軌道に乗ってくる近代初期の段階ですでに見られた現象でもあった。先に、「同じイギリスでもジェインの時代から1世紀ほど遡ると話はそううまくは行かない」と記したが、近代的な出版形態が整備されつつあった18世紀半ばにあって、「作者が増え続け、やがて読者がいなくなるかもしれない」と危惧したのは、『英語辞典』を完成させたジョンソンその人である。同時代の詩人アレグザンダー・ポウプも、当時の状況を「紙が安くなって印刷屋が増え、その結果、作者が氾濫している」とした。出版文化の発達は、作者氾濫と文化そのものの解体の危険を常に内包していたのである(引用は、原田範行「読書する啓蒙主義」『英語青年』(研究社、2002年5月号)、10-13頁を参照)。

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