【特集:本と出合う】
原田範行:書物はいかにして読まれるようになっていったのか──出版文化史の見地から
2023/08/07
モノとしての書物
出版文化史をこのように振り返って見るならば、書物のコンテンツをめぐって価値観が多様化し、その結果、電子媒体による大量の情報共有と発信がなされるという今日的な状況は必然でもあると言えよう。従来の書物にしても、古代世界の多くにあっては巻物であったものが冊子体に変化し、また写字生が転写していた写本は、印刷術によって大きく変化した。書物に代わって電子媒体になったからといって、情報の共有と発信という基本的な役割が変わったというわけではない。だが、書物がいかにして読まれるようになっていったのかということをさらに検討してみると、事は人間の思索内容や思考様式に本質的なかかわりを持つ形で、より重要な問題をはらんでいることに気づく。鍵になるのは、書物をモノとして見直してみる、ということだ(例えば、デイヴィッド・ピアソン『本─その歴史と未来』(ミュージアム図書、2011)などが参考になる)。
そもそもモノとしての書物は、人間1人1人の思索や行動に寄り添うという意味では、きわめて自由度が高くて豊かな多様性を有している。書物には、思索や情感が、そのままの形ではなく、作者や編集者、場合によっては事前に作品を読んだ一部の読者によって彫琢され、それが改めて読者に向けて解き放たれるというプロセスが集約されている。そのプロセスは、「書き記されたもの」自体が貴重であった古代世界においても、書物が身近にあることが一般化した近代以降においてもあまり変わらない。日常世界から1歩も2歩も抜きんでた思索や情感が書物に宿るのは、こうした彫琢の過程によるものである。しかもこの彫琢の過程は、1冊の書物が完成して終わるとは限らない。数百年にわたって保存されてきた1冊の書物に、作者のみならず、多くの読者が書き込みを重ね、その書き込みがまた新たな思索や情感を生み出していった例は、モノとしての書物の歴史において枚挙に遑がないほどある。読者の書き込みも、実にさまざまであって、「コメント機能」などという窮屈な形ではなく、自由奔放であった。私たちは、その書き込みの中に、読者1人1人の身分や出自、個性的な知識の持ち方や研ぎ澄まされた感性をさえ見出すことができる。
書物はまた、人間の思索や情報処理にかかわる実験の場でもあった。口頭表現を書き言葉に置き換えるための句読法はもちろんのこと、パソコンの画面をスクロールするかのように情報を繙いていた人々が、不便さのあまり冊子体に移行した、というようなこともあった。図表はもちろん、独自の芸術作品とも言える挿絵が文章の間や脇に効果的に配されるということもあったし、規模の大きな地図を体感的に理解できるような大型本が制作されることもあった。書物が読まれる際の読者の環境を意識して、紙や活字、製本、あるいは余白の割合に粋を凝らした書物も実に多い。
洋の東西を通じてある程度共通するこうしたモノとしての書物の特徴を要約するならば、それは、情報の共有や発信という民主的な性格を基盤としつつも、実は人間1人1人の個性を際立たせる器としての役割をも担うものであった、ということである。そしてここで重要なのは、そうした個性が際立つためには、人間が、人間のために、人間自身の手で、読者に分かるような工夫を重ねていかなければならない、ということである。なるほど挿絵本や大型本に表現された書物の世界は、例えばヴァーチャル・リアリティ(VR)の技術を用いることで、より精度の高い体験的理解が可能であるかもしれない。だがその体験的理解は、挿絵本や大型本を手にして作者や書物制作者による意図や工夫に思いをはせつつ、その書物をさまざまな角度から見たり何度も読んだりするといった種類の体験ではない。本来は、そうしたVRを可能にした制作者の手腕を思うべきなのであろうが、私たちは通常、そのようなことはほとんどしない。VRの技術は、その際立った個性をむしろ隠し、仮想であることを忘れさせることを志向するからである。
モノとしての書物は、情報の共有や発信を目標にしつつも、情報の大容量処理や大規模な共有、検索の迅速性といった点においては確かに電子媒体に劣る。書物出版のように、情報の良心的な選別が電子媒体にも必要であるとの指摘もあるが、それは、従来の敏腕編集者のような存在が電子媒体においても活躍する場が設けられれば一定の改善を見るだろう。だが、電子媒体と書物が決定的に異なるのは、いずれも出版文化の民主化という流れに沿いつつも、前者にあっては、人間の個性さえも含めた徹底的な情報の均質化が予見されるのに対して、後者は、1人1人の個性が生きのびるだけの簡便さと素朴さを相変らず維持している、ということであり、問題は、そうした人間の個性、それは時に気まぐれで、非効率この上ないものなのだが、そういう個性が発する輝きを、今後私たちがどのように評価していくかにかかっていると言えるのではないだろうか。
均質化に抗って──書物のゆくえ
電子媒体による出版には、なぜ徹底的な情報の均質化が予見されるのか。その理由は、できるだけ多くの人々に情報を届けたい、あるいはできるだけ多くの人々の情報を取り上げたい、という目標のうちに実は内在している。多くの人々が情報を共有するとなれば、内容はもちろん形式も似通ってくるし、多くの人々の発信する情報を包摂しようとすれば、一定の物理的制約から、やはり形式が似通ってくる。出版文化史においても薄利多売によって成功した出版者は散見されるし、作者氾濫という現象はすでに近代初期に存在していたわけだが、それでもなお19世紀のリード家には、『ガリヴァー旅行記』が1冊あるだけであった。ところが、リード夫人や従兄姉までもが同じように情報に接するとなれば、おのずと提供される情報も、情報提供の手法も異なってくる。書物から電子媒体へ、という動きが、基本的には情報提供の手法の変化でありながら、情報そのものの均質化をもたらすことが予見されるのは、こうした事情によるものだ。電子媒体への変化が、皮肉なことに、できるだけ多くの人々に情報を届けたいという量的な尺度に傾きやすいこと、そしてそういう量的な尺度の方が、情報の質を検討するよりも運営・管理しやすいということも、こうした事情に拍車をかけているように思われる。
それならば、電子媒体においてもそうした均質化に抗って情報の質を問い、人間の個性が発揮される場を確保するよう努めればよいのではないか、ということになるのだが、事はそう簡単には進まない。大量生産と大量消費はすでに社会の隅々にまで浸透しているからだ。しかもそうした流れは、今に始まったことではない。電子媒体が情報の均質化を伴うと言っても、そもそもそれは書物が歩んできた道のり、つまり、書物がそこにある、という環境形成の歴史とも重なり合ってしまうものなのである。ただ、こうした動きの中で、やはり今こそ考えなければならないのは、あのジェインの前から、提供される情報の均質化の名のもとに、1冊の『ガリヴァー旅行記』が消えてしまうことである。それは、さまざまな因習や社会的差別に抗って自律的に生き抜いたヒロインの人生を、あるいはそういう1人1人の人間の営為によって生み出されてきた人間社会そのものを破壊してしまうことにもなりかねないからだ。
リード家の他の人々にも情報が提供されつつ、しかしジェインの前には1冊の『ガリヴァー旅行記』があること──書物と電子媒体に関するそのような共存の道を確保するために、今私たちは重大な岐路に立っているように思われる。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2023年8月号
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