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【特集:新春対談】
新春対談:歴史が教えるコロナ後の社会

2022/01/11

どのように情報を読むかというリテラシー

伊藤 民主主義の健全な発展のためには歴史研究における一次資料が大切で、さらにファクトチェックが大切だと磯田さんはおっしゃっていますね。

磯田 ファクトチェックはとても大事だと思います。なぜかと言うと、基本的に発信手段が私の学生時代とまったく違うからです。私が学生の時、『第三の波』を書いたアルビン・トフラーが三田に講演に来ました。彼は、これからはコンピュータなどの情報機器が発達し、発信の主体が多極分散型になると言っていた。そして一般の大衆が何でも発言するようになるから、大新聞社や放送局、学者の言説といったものは力を持たなくなってくる、ということでした。

彼が言うことは結構当たるのです。現在はスマートフォンなどで実に様々な情報を皆が各々発信している。その中には、真実かどうかよりも、そうだったらいいのに、という願望、信じたいものがかなり含まれている。それは事実かどうかをチェックしないと、あらぬ方向に物事は向かってしまう。人間はいろいろなバイアスにとらわれていて、自分の所属している集団が褒められている情報は耳に入りやすいので、それをチェックしなかったら、誤った情報のまま先に進んでいってしまいます。やはり事実のチェック、一次資料に戻るということが大事だと思います。

伊藤 ただ、一次資料の見方も、その分野に優れた専門家の中でも意見が違うこともある。福澤諭吉が言った多事争論ですが、ああいうスタイルがやはり大切なんでしょうね。

磯田 その通りですね。一次資料だから正しいということは絶対にないわけです。例えば本能寺の変が起きた時、豊臣秀吉が発信した手紙は一次資料ですが、信長公は脱出できた、まだ生きているという偽手紙を出しています。そうすると、むしろ大事なのは、どのように情報を読むかというリテラシーなのだと思います。

この情報は何のために出ているか、どういう目的で、どのような状況下で発信されているから、正しいのかという判断できる訓練が必要だと思います。

伊藤 磯田さんが近衛文麿や松岡洋右のいわゆるポピュリズムを取り上げた番組の中で、「ポピュリズムの熱狂というのは必ず単純化が起き、気持ちのよいものに飛びつき、敵味方、善悪にはっきり分かれて相手を攻撃する。ポピュリズムの罠に陥らないために必要なのがファクトチェックだ」とおっしゃっていた。まさにファクトというのは、何人かで検証して初めて出てくるということですね。

磯田 そういうことですね。世の中というのは本当に複雑にできていますから、複雑にできている世界を複雑なままに理解しようと思うと、ある程度の情報やファクトが必要になってくる。あまりにも単純に理解できてわかりやすいと思う時は、やはり少し疑ってみることが大事だと思います。

AI時代に人間が担うべき役割

伊藤 そうなってくると、学校という教育機関において未来社会デザイン拠点をつくっていくという意味では、どういう教育をすればいいのでしょうか。

磯田 以前と比べて、意味や本質を深く考える力を養う教育が必要になってくると私は思っています。よく科学と「人文知」の結合ということが叫ばれている。その通りなのですが、しかし、人文知と言われているわれわれの分野も、放っておくと基本的に文字を読むだけに終わってしまうこともあるのです。

昔から「論語読みの論語知らず」という言葉があります。つまり、文字の読み方を教えるだけが人文学の仕事になりがちなのです。しかし、文字の彼方にある意味や本質を深く考えることが大切です。それこそ伊藤さんの分野に近いのかもしれませんが、量子コンピュータやAIなどがどんどん発達してくると、アルゴリズムが決まっていて、かつ目標が決まっているものであれば、かなりのものは人間よりもコンピュータのほうが早く解けるようになり得るし、もう実際になっていると思うのです。

こういう時代に、では人間の担うべき役割とは何かということだと思います。例えば慶應義塾のような大学がどういう人材を育成すべきかを考えると、私は抽象度の高い課題を総合的に考えることかもしれないと思うのです。抽象度が低い課題、例えば慶應義塾から三田駅まで人を車で送れ、というようなものはAIによる自動運転で解決される問題だと思いますが、伊藤さんが塾長としてなさっているように、慶應義塾を活用して日本社会に役立てるにはどうしたらいいかという課題はきわめて抽象度が高いですよね。

会社を経営して社員を幸せにしろと言われても、それは賃金なのか、福利厚生なのか、やり甲斐なのか。こういったことはやはり意味が重要なのです。これからは、そういった抽象度の高い課題を考え、それを実現できるような人を育てることを目標にせざるを得ないと思うのです。

伊藤 そうですね。磯田さんは発想結合という言葉を使われていますね。発想を結合していくということは、つまりただの博学では駄目で、発想という想像力を豊かにして、それを結合していく力が必要なわけですね。結局AIにしても、機械学習というような形で学習している限り、今ある中の組み合わせで過去の経験に基づいて学習するので、その枠を超えることはなかなかできないわけです。

磯田 それは難しいのでしょうね。

伊藤 ですから、これから人間にできるところは何かと、皆、期待するのですね。

磯田 そうですね。福澤先生の時代のほうが、教育の目的がわかりやすかった。あの時代はcivilization、文明を教育する時代でした。文明に似ていますが全く違う言葉に文化、cultureがあります。文明と文化はどこが違うかと言えば、例えば、「火事を消す」というタスクがある場合、「文明」では消火器で消す。文明の利器です。地球上どこの社会でも火は消火器で消せます。文明は普遍的です。しかし、「文化」の火の消し方というのは特異的です。例えばお城の屋根の上に「しゃちほこ」を載せます。しゃちほこは水を呼ぶから防火の対策になると思ってやっているのですが、実際には火は消えません。

しかし、しゃちほこを屋根に載せることと「火が消える」ことを脳内で結び付けている集団が日本列島にたしかにいた(いる)。この不思議な意味の結びつけ状態こそが「文化」です。よその集団からすると、まことに奇怪な意味の結び付けですが。馬鹿にできません。これが面白がられる。お城の屋根に消火器を置いても観光客は来ない(笑)。ところが「水をよび火を消す意味で城の屋根には、しゃちを載せてあります」と言うと、面白いと感じて、世界中から見に来る。ホモサピエンスは意味のこじつけでできた文化を面白がる動物なんですね。人文知はこの「文化」を扱います。今世紀の経済は脳内を喜ばせる消費の割合が増大します。意味や価値をさぐる人文知の意義が大きくなるわけです。

今、なぜ屋根の、しゃちほこを見るために、何万円も交通費を払って来る観光客がいるのか。文明化だけでなく文化化の時代になっているわけです。こういう人間の持つ幅広さ、古今東西の時間、空間を乗り越えて、いろいろな情報に接することを面白がる性質が重要になってくるかと思います。江戸社会には道楽という、無償の遊戯性と呼ばれるものもすでにありました。そういうホモサピエンスの性質そのものについて考えることも、これからの教育には必要な気がします。

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