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【特集:新春対談】
新春対談:歴史が教えるコロナ後の社会

2022/01/11

「国民安全保障」という考え方

伊藤 今回のパンデミックに関して、磯田さんが、NHK BSの「英雄たちの選択」の中で、「今後は国家安全保障ではなく、民の命を守る〝国民安全保障〟が国家の目標にならなければならない」とズバリとおっしゃった。こういったお考えはどのような経緯で出てきたのでしょうか。

磯田 慶應義塾を歴史の中において眺めて考えていて、国民安全保障ということを考えるようになりました。福澤先生たちが慶應義塾を創ったのは19世紀で、西洋を範に近代化をして国民国家をつくり強国化しないと日本列島の人々の生存自体が難しいと考えられていた時代です。要するに西洋をキャッチアップして国を強くしないと、生き残れないという時代でした。

でも、近代から現代になり、国家をこえた人流・物流が激しくなってくると、その様相も変わってきます。19世紀は国家や民族のところに命を守る防衛ラインが引かれていました。しかし、21世紀半ばに入った現在の状況を見ると、やはり個体としての人間のところにも、しっかり防衛ラインが引かれる必要があるのです。

その防衛ラインは、もはや複雑で多層的です。旧来の軍事的な安全もあれば、放射能や病原体の侵入を防ぐ健康面の防護もあります。経済的、精神的な安心もあると思います。個体としての命への共感なくしては、やはりこの21世紀に、人類が幸せに生きていくのは難しいと思うのです。

でも振り返って考えてみると、福澤先生が慶應義塾を創った頃の時代もそうは違わないとも言えます。幕末から明治にかけて、2つのリスクを日本人は抱えていました。1つはもちろん砲艦外交をしてくる西洋列強です。もう1つが、ウイルスと細菌です。特に疱瘡(天然痘)とコレラという、人間にとっては非常に厄介な2つの相手がいて、これは1回流行すると10万人以上死ぬこともあった。

ところが、この西洋列強とウイルス・細菌という厄介な2つを、幕末に適塾に集まった蘭学者たちが両方とも解決してしまうわけですね。大村益次郎は陸軍を造り、西洋型の軍事力を増強し、列強に立ち向かう基礎をつくった。一方、緒方洪庵や長與專齋はウイルス・細菌のほうに立ち向かう基礎をつくった。

伊藤 長與は「衛生」の語を採用し、衛生行政の基礎をつくっていますね。

磯田 そのように適塾に集まった蘭学者たちがリスクの解決をやっている。もう少し古い時代には高野長英が蛮社の獄で弾圧されますが、その家系から後藤新平が出てくる。そのように、蘭学者、英学者の学問が実学として信用を得たのは、この2つのリスクを彼らが解決したからです。ですから極めて強い信用を得て公共に関わっていくようになったわけです。

福澤諭吉の思想はなぜ古びないか

伊藤 しかし、そうは言っても、時代が下ると、慶應義塾にとっては、1890(明治23)年の「教育勅語」が大きな転機になるわけですね。明治政府はやはり天皇を中心とした国をつくりたかった。これも外敵と戦うためということなのでしょうけれども。

それに対して慶應義塾の独立自尊は一人一人の人権、個の尊厳を大事にし、段々と国の考え方と対立してくる。福澤諭吉の亡くなる1年前に発表された「修身要領」は「教育勅語」に反するものということになり、個のためではなく、やはり国のため、天皇陛下のためというようなことに日本が向かっていくわけです。〝洋学と言えば慶應義塾〟という地位ができても常に少数派だった。もし「修身要領」的な考え方が日本の主流になれば、第二次世界大戦への参戦はなかったのではないか、ということも慶應義塾では議論した人がいます。

磯田 全社会の先導者を目指す慶應義塾という点は、私も21世紀半ばの今、非常に大事な視点だと思っています。福澤諭吉の思想が古びないのは、2つの理由があると思うのです。

1つは、知識を世界に向けるか、国内に向けるかということですが、国学というものがものすごい勢いで幕末、明治にかけて非常に流行る中、福澤諭吉の眼は内向きの神道・国学には向かず、外へ向く。それで世界の知識を入手して一番いいものを使う。別に日本を否定しているわけではありません。世界の中で日本を位置付けるという広い視点ですね。

もう1つが、国家に象徴される集団へ立脚点を置くか、個に置くかという点です。その時代はやはり集団主義が多かったわけです。藩も忠義ということで個人が藩や国家に結び付いて、親孝行の「孝」ということで家制度、家族に結び付けられていた。

ところが福澤先生は学問によって涵養される知の働き、知識、見識による個の判断を重視する。これがないとやはり何をやっても始まらない。それこそが国や家庭をしっかりしていくものの基本であると、個を根本、立脚点としたところが福澤諭吉の素晴らしさだったと思います。これは私は150年経ってもなお有効な思想だと思うのです。

伊藤 そうですね。福澤先生の言葉は当時の最先端の洋学を土台にしたのですが、これを今読むと、「普通の西洋の考えじゃないか」と言われることがある。しかし、それはその時の日本が置かれた状況という文脈に照らし合わせると画期的なことなのです。誰も世界に目を向けていなかった時に、世界から様々な知識を取り入れた。しかも大変な愛国者だったわけです。

ですから、福澤諭吉が今もわれわれの心の中で生きているというすごさを、どうやって慶應義塾の塾生たちに伝え、全社会の先導を目指すべきか、ということがわれわれの大きな課題です。

そして無駄を省いて要点をスパッと書かれる。磯田さんもスパッと竹を割ったような文章を書かれますね。回りくどい表現というのは、福澤先生のおっしゃった演説の美学に全くもってつながらないと感じます。今、遠回しに話す人が多いので。

磯田 「わかりやすく話す」ということですよね。僕は近代史の先生から「福澤先生は、文章を書いたらまず音読して、家の女中さんがわかるかどうか確認していたらしいよ」と言われ、目から鱗が落ちました。この話が、最初の著作の『武士の家計簿』を書く時から頭にあって、リズムのよい、中学生が聞いてもわかるような文章を目指しました。

あれだけわかりやすさにこだわるというのは、福澤諭吉が、西洋の近代市民社会のモデルを日本に入れる時に、いい道具立てを2つ重視していたことに象徴されていると思うのです。

それは学校と新聞です。まず学校で人を育てる。それとともに、分厚く広がった地方にいる人たちへ『時事新報』などで世界知識を素早く注入する。そうやって世界の情報の融通をやり、産業立国を目指すという考えです。ものを生み出す力を津々浦々まで新聞という送信装置が与えて、人間を頭の中から、しっかりさせていく。手間はかかるけれど、このやり方が社会改良の王道です。後になって効果が出ます。

日本は武士の時代が長かったから、上から価値や知識や情報を落とすやり方が得意です。権威主義的な縦型社会になりやすい。これは近代化のスピードの点では効率がいいかもしれませんが、そうしている限りは変化への対応や個人の幸せ追求といった考えは出てきづらい。やはり新聞と学校を重視しながら、しっかりと責任ある公共性を持った人々をつくって産業力を高めていくという、遠回りでもまっとうな国や社会のつくり方を提言したことが、私は福澤の優れていたところだと思います。

伊藤 そうですね。慶應義塾という命名も、慶應はたまたま時の年号を取ったわけですが、「義塾」は英国のパブリックスクールから取ったということです。パブリックスクールというのは必ずしも公立ではなく、私立でありながら、公共団体ではない形で公の発展を考えるわけです。さらに、独立自尊で一人一人の個に重点を置き、一身独立という、まさに今危機にさらされている民主主義の基本を重視する。ですので、私どもの一つの任務というのは、今、民主主義を健全にどう発展させるかということなのかと思っているのです。

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