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【特集:新春対談】
新春対談:歴史が教えるコロナ後の社会

2022/01/11

個人のソリューションとしての歴史

伊藤 これから大学や一貫教育校で取り組むべき歴史教育のスタイルについてお伺いしたいです。歴史というのは型に嵌めることができない、人類のレファレンスとして経験として捉える、ということをどうやって実践するべきでしょうか。

磯田 これからの歴史の教育という点で私が一つ考えているのは、「個人のソリューションとしての歴史」というものです。個人、一身の独立ということが慶應義塾にはあると思うのですが、人はそれぞれいろいろな目標を持っています。例えば保険業に就いた人は、いい保険って何だろうと時空を超えて考えれば、それも歴史学習になる。縄文人はたくさん採れたドングリを土の中に埋めるだろう。それは保険の原点ではないか。こんな視点でもいい。僕は歴史を「靴」と呼んでいます。個人が世の中を安全に面白く歩くためのツールとしての歴史があっていい。

これまでの日本は、国民として標準的な知識が必要ということで刷り込まれる教科書の歴史を学んでいました。これは修学旅行型の歴史です。修学旅行で名所旧跡を回っていくのと一緒で、偉大な政治家や武将、偉大な芸術作品などを学んで終わる。ひなびた温泉場のちょっとくだけた場所なんてところには絶対寄らないのです。でも人間の本性としては、実はそういうところも存在して、複雑な社会ができあがっているわけです。

最近個人旅行が流行っているように、歴史もそのように捉えればいいのではないかと思うのです。「ファミリーヒストリー」という番組をNHKで放送していますが、自分の家の歴史をまず見てみる発想から歴史を見ても、だいぶ違う世界像が持てると思います。

私は、今回、手術で首の瘤を取りましたが、徳川家康も浜松城に在城していた時に背中にできものができて、おそらく粉瘤だと思いますけど、それを明の技術で薬を塗って切除することに非常にためらっている。自分が直面している、瘤とりの手術の際にそれを参照すると、やはり家康のような武将でも手術が怖いんだとか、外国の技術を、どうやってこの時代に入手しているのだろうとか、歴史が身近に感じられる。

伊藤 向きあい方や立ち居振る舞いを考える上で参考になるということですね。

磯田 やはり時空を超えていくというのは大事で、地域研究と歴史研究は、狭い時間、空間に閉じ込められている人の精神を解放して、いろいろな発想に触れることができることが大事だと思います。

伊藤 でもやはり、「あなた、歴史好きですか」「いや、嫌いです」ということで終わってしまう人も多いですね。特に高校の近現代史は、日本では結局行き着かないというのがよくあるパターンです。先生方が教えづらいというのもあるのかもしれませんが、近現代史から学ぶことはたくさんあると思うのです。

磯田 そうですね。近いものほど複雑になっているのでなかなか分析が難しいのですが、学ぶものは多いです。だけど、おっしゃる通りあまりちゃんとやっていませんよね。

伊藤 例えばこれだけオンラインで様々な資料が見られるようになったら、高校段階の歴史でもレポートで調べてそれぞれの意見を述べなさい、という教育になると、全く違う見方ができると思うんですね。

磯田 そうですね。だからやはり資料はたくさん残し、並べて比較するという視点が非常に大事だと思います。教科書だって各国並べて読んでみたら面白いのです。同じ事件でも、韓国の教科書と日本の教科書では全然違うことを書いていますし、どれが正しいというより、人はどういう見方をするのかを知ることのほうが、事実を突き詰めることより価値がある場合もあります。

伊藤 そうなると、やはり教師という立場の人たちの広い意味での実力が問われるようになりますね。

磯田 そうですね。産婆さんのようになってくるというか。昔、ギリシャの哲学者ソクラテスが問答について産婆術と言ったというのは非常に参考になる話です。答えを教えて暗記させるというよりは、教師がどのように真実に迫るか、どのように比較するか、どのように世界には多様な考えがあり、溢れている情報がどのように伝わっていくかと、産婆さんや案内人のような役割になっていくのかもしれません。

研究の現場の風景を見せる

伊藤 私が慶應高校の生徒だった時、たまたまですが、地学担当の先生が、他大学の大学院生で、自分で掘ってきた化石などを持ち込んで、その解析や分類をわれわれに実践してくれました。

磯田 それはいい教育ですね。

伊藤 葉っぱの化石を図鑑が教えることに沿って分類して、どの時代のどの葉っぱと同定して石膏で型を作り、化石のレプリカを作ったんですね。その過程が面白くて、「ああ、こういうプロセスで調べていくんだ」ということが自然にわかるようになっていた。そういう人たちが慶應の一貫教育にいてくれることが大切なのかなという気はしています。

磯田 なぜその知識が得られるのか、なぜ教科書に載っている一行を書けたのか。その過程がわかる授業というのは面白いですよね。研究の現場の風景というのも、早い段階である程度見ておいて、予定調和を壊して新しい知識を得ていくことも大切だと思います。もう情報生産の時代になったら、どこにでもある同じものを2個生産しても駄目な時代ですから。

伊藤 そうですね。私がカリフォルニア大学バークレー校にいた時、「暗黒物質(ダークマター)」というまだ見つかっていない素粒子を探す研究をやっていたのです。ダークマターとは何かに関する議論も熱く、バークレーはある種類のダークマターを推していたのですが、シカゴ大学はまた違うダークマターを推していた。誰も知らない理論上の仮想粒子ですから、2つの派閥に分かれてえらく揉めていたんですね。

いわゆる世の中が考えている物理学者の美しい世界とは違う生々しい世界でしたが、逆に正々堂々として面白いところがあった。そのようにいい意味で生々しい、早慶戦みたいなものも見せてあげたいなと思う時がありますね。

磯田 実は私は大学1年の時、宇宙の本を山積みにして読んでいたんです。ダークマターの話を知った時は衝撃的でした。人間の脳だって神経の電位で動いている。光とか電子といったものでわれわれは認知や思考をしている。ダークマターのようなものが、宇宙の質量のかなりの部分を占めるとなると、絶対知り得ない不可知の闇が宇宙にはあるのか。そう思って、無性に怖くなったことがありました。

伊藤 そうなんですか。ダークマターは仮想粒子なので、物理的にエキサイティングで、一番エレガントな数式の導出を示した人の主張が受け入れられる傾向があります。アインシュタインのE=mc2も美しいですよね。このE=mc2をもっと複雑にする人はいつも大ブーイングでつぶされる。世の中はシンプルにできているということを皆、願っているのです。

神の世界というか自然の世界、福澤諭吉たちが言った天の世界というものが、私は少なくともあると思っていますが、でも、その天の世界に近づいていった時に、人間が自分たちで破滅しないように気を付けなければいけないなと思いますね。

磯田 「神はサイコロを振らない」。アインシュタインがそう言ったニュートンなどの古典力学的な確定性の時代はわかりやすかった。初期条件と制約式がわかれば未来の解が確定的に予測可能とみられた。しかし量子力学の時代になって、この世界は確率的で不確定だとわかってきた。現在、それこそ伊藤さんがご研究の量子コンピュータが登場。かなりのことが確率論的に予測できるのでは、と期待されはじめ、実際、いろいろな発見がなされつつありますね。

伊藤 そうなんです。神がサイコロを振るようなものも使いこなせるのか、というのがわれわれの興味だったのですが、それが使いこなせる可能性が高くなってきた。でもそれを使いこなしたと思っているうちに、微妙な不具合が出てきて、実はわれわれの量子力学の理解が完全ではなかったとわかったりすればしめたものです。よって、完璧な量子コンピュータをつくるという作業は、われわれの量子力学の理解を試す大実験なのです。まさに科学的な好奇心です。

私は、磯田さんのいろいろな本や番組を見て、今の私たちの理解に辿り着いた道程を振り返り、それを系統付けてまとめるのが歴史学で、その経験とも言える歴史をもとに判断するのがわれわれの実学だと思いました。そのように考えた時、ふと、自分も歴史学者なんだと思ったんです。例えば科学の研究でも、私たちは今までの研究を、論文やいろいろな人の話を聞きながら整理して次の研究をするわけで、実は多かれ少なかれ皆が歴史学者なのですね。

磯田 そうです。全ての人は歴史学者です。すると、僕も物理学者にならなければいけないですね(笑)。

「義塾」という意味

磯田 伊藤さんが先ほど慶應義塾の「義」という話をされたのですが、この場合の義という言葉は「パブリック」のことですが、これは絶妙な訳だと思うのです。義とは何かと言えば、私は「なすべきことがあった時、それをすべき勇気」と捉えています。

これは自発的な力で、誰に命令されたわけでもなく、学校が必要だと思った人が勇気を振り絞ってつくる学校が「義塾」ですよね。この自発的に起きる力が大事だと思うのです。

伊藤 そうですね。そのためには、やはりそれぞれがそこに存在していることに意義を感じないといけないのでしょうね。それぞれ「独立しろ」と言われても、自分の存在意義を感じ、周りからも認められる環境をつくっていかないと孤立を感じてしまう。その存在意義を感じさせる教育が大事で、それは誰かがこっちだと言った時にもう一人が違う意見を言っても、お互いが尊敬しあっていれば全然構わないわけです。

多事争論で侃々諤々の議論をする。でも、皆が国を世界をよくしようとしている。その結果、自分がよくなって、家庭がよくなって、地域がよくなるという積み重ねなのだと思います。それぞれが基礎工事をした上で侃々諤々の議論をしてよい社会ができていく。そのように皆で力を合わせてよい方向に進んでいく、そういう場を慶應義塾につくっていくべきだと私は思っています。

磯田 個人の基礎工事は学問です。福澤先生の言う「一身独立」の学問には2つあると思っています。生活スキルの獲得と自己哲学の確立です。資格を得たり偏差値の高い大学に入ったりして職にありつき、生活の安定を求める学び方もある。それを私は「身過ぎ世過ぎの学問」と呼んでいます。これまではそれだけでもやってこられた。しかし、21世紀半ばの現在は不確定な世の中で、やっていけなくなっています。

個人の基礎工事としての学問の目的は、生活スキルの獲得と同時に、自分の哲学、価値観・判断基準をきちんと持っていなければならなくなっています。他人から与えられたものではなく、時空を超えていろいろな物事を見聞きすることで、それは形成される。私の好きな言葉に、中国の画家の董其昌(とうきしょう)が唱えて、富岡鉄斎が受け継いだ「万巻の書を読み、万里の道を行く」という言葉があるのですが、いろいろな事物や発想に楽しみながら触れる中で、自分なりの世界観、世の中の見方、価値観をしっかり持つのが本当の学問だと私は思っています。

本物の学問を人々がやって、世の中に役に立つように、いい世の中になるように、と自発的に行動し始めるのが義ですね。慶應義塾は慶應塾でも慶應私塾でもない。義塾です。「一身独立する」とは、たくさん物事を知って、自分で判断できる、自分の物差しを体の中にもって、社会を良くするよう自発的に行動する人物になるということです。福澤先生はそういった人々を育成する塾を義塾としました。

伊藤 それをやらなければいけないのが慶應義塾だと私は思います。そういう意味では、やはり学問と社会の間にギャップがあってはいけない。そして公益の義ということで、先導といっても一人が引っ張っていくのではなく、皆そのグループにいて、場合によっては「しんがり」を務めることもとても大切だと思っています。取り残されないで皆のことを考え、大きな社会の中で、しんがりも務めながら正しい方向に進んでいくのが真の先導なのだろうと感じています。

今日は、長い間、有り難うございました。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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