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【特集:新春対談】
新春対談:伝統と革新を備えた学塾を目指して

2019/01/10

「人間交際(じんかんこうさい)」という哲学

長谷山 その通りだと思いますね。東京オリンピック・パラリンピックでは、慶應義塾は英国のBOA(英国オリンピック委員会)とBPA(英国パラリンピック委員会)と提携しまして、日吉キャンパスで英国の選手団が事前キャンプをいたします。そのときに、ただ場所をお貸しするだけではなく、一貫教育校生、大学生らと、コーチング、スポーツ科学の研究を共にしたり、学問の府としてオリンピック・パラリンピックにどう関わるかを模索するようなプロジェクトを行う予定です。元々、古代オリンピックは体育と芸術の祭典でした。

能楽も2020年東京オリンピック、パラリンピックの応援プログラムとして認定されておりますね。そういった中で、日本の文化をどう発信していくかというのは非常に重要だと思います。

坂井 その通りですね。私どものNPO法人白翔會はオリンピック・パラリンピック憲章に明記されている「東京2020文化オリンピアード」の認証を受けました。本年から来年へ、そしてレガシーとして価値あるものを残し、未来へ発信すべく検討している段階です。

長谷山 教育の問題が出ましたが、世界で通用する人材ということで英語教育の強化などが言われていますが、この場合の英語というのは中世ヨーロッパの大学でラテン語が学術共通言語になっていたので、学問交流が容易だったことを念頭に置くと同時に、英語を1つのスキルとして、自国の歴史や文化を正しく海外に発信できなければいけないし、発信すべき中身を持たないと話にならないという認識になるわけです。

今、AIやロボティクスなどテクノロジーもどんどん進んでいて、テクノロジーが人類を脅かすのではないかという声もあります。確かに膨大なデータを駆使して論理的に結論を導き出すという点ではAIは人類よりも上をいくと思いますが、一方で、過去のデータが役に立たない事態になったときに、人間が持っている感性や直観力、あるいは知性を総動員して、想定外の事態に対応しなければならない。テクノロジーと人間の調和を図ることが可能な人材を育てることが高等教育機関、特に義塾のように人文学と科学両方の伝統を持つ総合大学の役割だと思います。

異文化理解は、ただ相手のことを理解するだけではなく、自分の文化もきちんと伝え、また異文化間で摩擦が起きたときに、平和的に乗り越えていくことですし、福澤諭吉の強調した「人間交際(じんかんこうさい)」に通じることだと思うのです。これは、皆で仲良くワイワイやればいいという意味では決してなくて、『学問のすゝめ』の中では、工業といい、法律といい、学問といい、全部人間交際のためにするものだし、それがなければ学問も無用のものだと言っている。そして、交際を重ねていくと、人情が和らいで軽々に戦争することもないと主張しています。

「人間交際」を世界中でやっていくことで争いも防げるんだという、これはもう政治哲学と言ってもいいと思います。そうした伝統を持つ慶應義塾の中で、戦禍を越えて能楽の伝統を学生たちが守り、それを支援していただき、現在の学生にもつながっていったわけです。伝統を継承しながら、時代の変化に賢く対応していく学生が育ってくれればと思っています。

「独立自尊」という精神

坂井 学生の皆さんもそうだと思いますが、日本全体で、やはり個々人がそれぞれの考えのもとに行動し、ものを考える力ということを幼児教育の間から根付かせなければ駄目だと思います。

私は幸い、能というものがございましたので、小さい時分から勉強しておりました。本も読み、その中で自分自身が何を考えるか、どういうことを相手とお話ししなければいけないかを考えてきました。自分の気持ちを押し付けることではなく、話をしていくことでお互いの理解が生まれる。だから教えることと育てることが、やはり一番大切だと思うのです。今の幼児教育を拝見していると、お母さまが大変大切にお育てになるのはいいかもしれないけど、どういう具合に育てているのか、私はどうもちょっと心配なところがございますね。

もう1つ、これからAIの時代になって変わってくるところもあるかもしれない。「安達原」という能がありますね。あれはみちのくの鬼婆の伝説です。あの寝屋の秘密はいったい何なのだろうか。もしかしたら、その人が体験し、反省しているものだったかもしれない。秋の木枯しが吹くみちのくの一軒家に風が吹きすさむ。そこで女が一夜の宿を親切心から泊めてあげる。この話の語りは、中の型は同じであっても時代によって変わってくるんだと思います。

バッハの時代から音符は変わりませんが、表現方法が深くなるということがありますね。現代の能は安易に演じては絶対いけないんです。よく僕は「守る」ということを言います。それからもう1つ、「破る」ということがあるんですね。型は昔から教わった通りでも、あるときに別な解釈をし始める。そうすると、ちょっと「破る」という感じになります。この曲はこうなんだ、でも、私はこう見るということです。

世阿弥の本を読んでみますと、あれはそう難しい話ではないんです。役者としての技術、芸能をいかに開発し、またその高みを目指すかということが書かれています。だから読み方によったら、ものづくりのイノベーションや経営学にも相い通じるんですよね。

長谷山 それは大変おもしろいですね。明治政府が「education」を「教育」と翻訳したときに、福澤諭吉はものすごく反対して、「発育」と訳すべきだと言うのです。

坂井 ああ、そうでしょうね。

長谷山 「education」というのは、その人間が本来、中に持っているものを引き出すのであって、だから自ら伸びる発育だ、植木職人が必要な分だけ水をかけて木が本来持っている力を伸ばすのと同じだと言っています。

今個性、個性と言われますが、ただ、個性だけでわがまま勝手にやっていたら、学び取ることもできないので、そういう意味では、やはり最初は型というものをきちんと学ぶ。そして基本ができたら自分の持っているものをそこから発露させていく。それは師匠や教師によって引き出されることもあるし、自分から気が付いて何か新しいものを生み出すこともある。だから、きちんと基本を学ぶ教育と自らが伸びていく発育の両方が揃うと、本当にいい人材育成になる。これは能の世界も大学の世界も同じかもしれませんね。

坂井 長谷山塾長がおっしゃる通り、福澤諭吉先生の精神のもとにはそういうものがあったのだと私は思います。

長谷山 独立自尊というのは本当にそういう意味だと思います。やはり慶應義塾の教育や伝統を一言で表してみろというと、独立自尊という言葉にすべてが凝縮されているかもしれませんね。

今日は長時間にわたり、有り難うございました。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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