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【特集:新春対談】
新春対談:伝統と革新を備えた学塾を目指して

2019/01/10

能楽の普及・発信という課題

長谷山 江戸から明治になるときには、それまでのシステムが壊れたわけですから、大変だったのでしょうね。

坂井 それはもう、廃藩置県になり、どこが能楽を保証してくれるのか。日本の文化ということで考えれば、朝廷にも禁裏にもお能を司るところがあり、舞台も用意できるような形になって天覧能をしょっちゅう京都でなさっている。でも、何か能の存続のために考えなければ、という発想にはならなかったみたいですね。お城を壊したのと同じなんです。能舞台を持っていると、にらまれるのではないかと。

明治大帝の嫡母である英照皇太后はお能が好きだったんです。小さい時分から歌っていらっしゃる。じゃあ、陛下とともになぐさめようと、岩倉具視が使節団で西洋から帰ってきた後、青山御所に能舞台を建てた。それが能の復活のきっかけだったのです。

諸外国の文化に触れて、日本は西洋化することが必ずしも近代国家になる処方箋ではない。日本には培った貴重な伝統と魂があるではないか。近代化と日本の精神的自立は、植民地化されたアジア諸国の不幸を考察すべきだ、という理念のもとに、かの西洋化された鹿鳴館文化は、あっという間に消滅したのです。

てんでばらばらに散っていた能役者を集めて青山の御所で能を鑑賞した。扶持を離れた能楽師は大東京に来ればなんとかなるという意識があるので、国中から優秀な脇師、狂言、囃子方が集まってきたんですね。

旧大名は皆、大名ではなくなりましたから、外国の華族制度みたいなものを取り込み、華族会館で能の稽古を始めることになった。そうしたら、やりたくてうずうずしていた方がいっぱいおられたんですよ。それで芝の能楽堂で能楽を開催することになる。これは靖国神社能楽堂として今でも残っています。

長谷山 そうすると、危機を乗り越えるときに、新しい形にしたり、能、謡を経験してみたい人にお稽古をつけたり、普及に力を入れる。そうやって理解者を増やしていく努力をされたわけですね。

坂井 お一人では稽古できませんね。誰かに習ってみようと、ときの能楽師に習いますね。そうすると、今度は皆で楽しんでみようと同志の人たちが生まれます。そして、そのお稽古場の中から発表会を催します。明治時代になると次第にこういう具合に浸透していきます。一番熱心なのは商人の方です。国の重要職とのお付き合いで一緒にお稽古をなさるわけです。能舞台を個人で作るようにもなった。

ただ、取り残したのは学校です。明治政府が官制の学校を作りますが、音楽は西洋音楽をカリキュラムにした。そこに教育の一環として室町時代には「文化振興の柱」とされ、江戸時代には「式楽」の位置付けをされた国芸の能を入れなかった。やはりこれが問題なんです。ですから、親父がやり始めました昭和12年に、今後は若い人たちにそういう伝統芸能を体験してもらおう、ということで一番最初に行ったのは慶應義塾の観世会です。

長谷山 それはやっぱり大きいと思いますね。明治の国家教育というのは、欧風化と富国強兵なので、学校教育も体育、武道を盛んにし、伝統的な文化はあまり取り入れていなかった。

坂井 学校教育の中で取り入れたのは西洋音楽のみだったんですね。しかし、戦後は学校教育の中には文部省の指導要領にずっと能が入っていたんですよ。それがあるときから一時、20年間消えてしまった。マークシートテストが原因なんです。その結果が学級崩壊です。

これでは駄目だ、載せるべきと言って、ようやく2002年から小学校、中学校、高等学校まで一貫して指導要領に能を載せました。最初は日本の和楽器を勉強することが名目でしたが、小学校の国語の授業は狂言の「柿山伏」が入り、中学校の国語・社会には「お能とは」の副読本が出ています。高等学校になったら日本史、国語の古典として扱われています。

選択科目の音楽の中で能の謡が1つの教科に入って、あれを謡うと点数がもらえるんですよ。でも教える先生がいない。今度オリンピック・パラリンピックの年に指導要領が変わりますので、そのときに、日本の文化発信のところに位置付けて、学校教育の中でも能などの古典芸能を入れ込んでいかなければいけないと思っているんです。

私はNPO法人白翔會の活動として、学校教育でできない部分を少しでもフォローできればと思い、出前授業や講演を行っています。舞台で演じること以外に、能のこれからを考え、国内外に普及・発信することは、ユネスコの世界無形文化遺産第1号に認定された能を演じるものの務めとして、早急にやらなければならないと思っています。

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