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【特集:新春対談】
新春対談:伝統と革新を備えた学塾を目指して

2019/01/10

世界標準の中で個性を発揮する

長谷山 今、大学も学生もグローバル化の中でどのように生きていくかが課題になっています。

グローバル化というのは、ヒト・モノ・カネが国境を越えて流動する中で共通ルールで平均化していく波のように感じます。そうしますと、世界標準に適合しないとやっていけないわけですが、しかし、逆に何か個性を持たないと埋没してしまう。

先ほどの「型から個性へ」という話と共通すると思うのですが、私は柔道がそれを象徴しているなと思っています。国際化された初期の日本柔道は、日本のお家芸ですから大変強かった。ところが世界各国が柔道をやるようになり、国際連盟もでき、そこでルールがどんどん変わっていくと、一時期「これは柔道ではない」と日本は主張しました。柔道着の色が白でなくてもよくなったとか、自分から技を仕掛けないと減点になるというようなことですね。

もともと柔道というのは、敵の襲撃から自分の身を守るものなので、自分から攻撃して相手を倒すということは本質ではない。しかし、それをいくら言っても、世界のルールがそうなると従わざるを得ない。では、もう世界大会やオリンピックにも出ないで国内で孤塁を守るのがよいのかと言えば、そうではなく、やはり世界のルールに適合しながら日本柔道の個性を出していくことが重要なわけです。その努力の甲斐あって、最近ではまた日本柔道が活躍できるようになっている。

おそらく大学も同じで、世界標準に従いながら個性を出していくということが必要です。慶應義塾の個性というのは、やはり独立自尊の人材を社会のあらゆる分野に送り出していく、社会のいろいろなところに必ず慶應の卒業生がいて活躍している。こういう人材育成が特徴だと思うんですね。

坂井 その通りですね。

長谷山 財界の慶應とよく言われます。確かに、2013年のTHE(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション)の大学ランキングで、義塾は世界的な大企業のトップ輩出数で世界第9位の評価を受けました。しかし、皆が財界に行くわけではなく、いろいろなところで活躍しています。例えば公認会計士試験の合格者数では、慶應義塾は43年間、連続日本一です。2013年には司法試験で合格者数と合格率と共に日本一になる実績を上げています。政界、学界、芸術界、スポーツ界などいろいろな分野で卒業生が活躍している。これが慶應義塾の個性だと思っています。

スポーツでは、これまで慶應からは130人を超えるオリンピック、パラリンピックの選手が出ています。特に大正9(1920)年のアントワープ大会では、テニスのシングルスとダブルスの両方で熊谷一弥選手が銀メダルを獲得したのですが、実はこれが日本人メダリスト第1号でした。昨年のアジア大会でも塾生・塾員が大活躍しています。金メダルに限っても、陸上の山縣亮太君、小池祐貴君、女子フェンシングの宮脇花綸君、女子サッカーの籾木結花君、セーリングの土居愛実君と5人のメダリストが誕生しました。

六大学野球では惜しくも三連覇を逃してしまいましたが、一昨年の秋と昨年の春と2シーズン連続優勝し、塾高野球部が春と夏、連続で甲子園に出場したり、と活躍をしてくれています。

カナダのブリティッシュ・コロンビア大学の学長が日系のサンタ・J・オノさんという方なのですが、そこの野球チームがカナダで1校だけ全米の大学野球のリーグに入れてもらっている強豪校なんですね。ある国際シンポジウムでオノ学長にお会いしたときに、慶應も野球が強いそうだね、自分が野球部を引き連れていくから勝負しようじゃないかというオファーがありまして、昨夏に来られて親善試合をしました。

私が嬉しかったのは、そのときに野球部の学生と、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて学生が作っているボランティアチームが、ブリティッシュ・コロンビア大学の野球部の学生たちを鎌倉に連れていったり、いろいろな日本文化の体験をさせてくれたんです。つまり、文化的な国際交流も一緒にやってくれたんですね。スポーツを通じて、文化的な広がり、そして、また人の広がりを作れるという力は、慶應義塾の文武両道の精神に通ずるところがあります。

坂井さんは積極的に世界に向けて能楽の発信と普及活動をしておられます。能というものがグローバル化の中でどのように守られ、また変化していくか、どんなふうにお考えになっていらっしゃいますか。

坂井 能というのは、明治維新までは徳川幕府で保護、育成されていたんです。各藩、石高によって能面を持つことが義務付けられ、役者を召し抱えるということや能舞台を作ることも決められていた。

加賀藩なんて百万石ですから、あそこは装束から役者から揃えていたわけです。仙台の伊達藩は将軍秀忠が贔屓された喜多流を、細川管領家は金春流をずっと召し抱えていた。しかし、細川家は幕府にお覚えめでたい形態をとることが望ましいと、喜多流も入れて、うちは二流召し抱えますとした。

ただ、幕府は中央集権化という考え方で、各流派のトップを江戸の中心に全部集め、屋敷を与えた。将軍指南役は観世流だったのですけれど。

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