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【特集:新春対談】
新春対談:伝統と革新を備えた学塾を目指して

2019/01/10

「型」と「個性」

長谷山 日本文化と西洋文化の違いということから、国際的な文化交流という視点で少しお話を伺えればと思います。坂井さんは世界各地で能の上演をなさっていて、能を通じての国際交流にも大きな貢献をされています。フランスではボルドー文化祭、韓国ソウルの第3世界演劇祭、米国のワシントン・ナショナルギャラリーにおける日米両国政府主催「大名美術展」、並びに「ブッシュ大統領就任祝賀能」など。ロシア政府からは日露両国首脳の基本合意で開催された「ロシアにおける日本文化フェスティバル2003」や「サンクトペテルブルク建都300周年」記念事業における記念公演などの功績に対して、功労賞や国家が海外の人に授与する最高の友好勲章も授与されていますし、また中国では日中国交正常化30周年の年に釣魚台国賓館や故宮太廟で公演された後、何度も中国で上演なさっておられます。

能が表現する人間の情念、業の深さ、それが、また救われて転生していくというようなものを観た海外の観客の反応はいかがなのでしょうか。

坂井 モスクワのボリショイ劇場と、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で「隅田川」を舞ったんですね。イタルタス通信の社長がイグナチェンコ元副首相で、VIP応接間に通され、特別記者会見を用意いたしましょう、と言う。私はロシア語に通訳する人に、まず「隅田川」のあらすじをお話しして、それから見どころ、そして最後にはこういう具合に曲は終わるとお話ししたんです。

そうしたら、まだ23、4のいかにも若い男性が「『隅田川』の曲はどういうお考えでお舞いになるんですか」と質問した。「それはさっきあらすじをご説明したでしょう」と言うと、「いや、そうじゃないんです。私がお聞きしたいのは、坂井さんが『隅田川』をどういう具合に理解し、どういうふうに表現されているかを聞かせてもらいたい」と。日本でも、ここまで質問する人はいません。「それはよく質問してくれた。あなたは素晴らしいね」と申し上げた。

「隅田川」というのは、日本の東と西の間に流れている。昔は辺境の地で、その川を渡るのは大変なことで、あまたの事故も起きてくる。都から来た女性が子供の跡をたどって来ると、再会したのは墓の中の自分の子の姿であった。母の悲しみはいくばくか、ということだけれど、母の悲しみというのは普遍的なもので、「隅田川」というのは、雨のつゆがずっと下り、海に注ぎ、また滔々と何百年、何千年、川は流れている。その隅田川で起きた物語は恒久的な人の心に通じるもの。だから、自然と人間の心がどこかで結ばれてきて、その悲劇をお互いに認識しなければいけない。そのへんが僕が考えている「隅田川」の全体像だと言ったら、ちゃんと分かるんですよ。

長谷山 とてもおもしろいと思うのは、物語は昔からまったく内容が変わっていない。能の曲としても型とか様式というものは同じである。けれども、やはり演者によってそれぞれ違う話になっていくわけですね。そのロシアの若い男性は、それぞれの演者の個性や思想がどういうふうに表現されるのか、ということを聞きたかったのですね。

坂井 そうですね。それがやっぱりものの本質と役者を観る感性ですね。教わった通り、型通りのまますっと終わってしまうのでは当然駄目なんですね。

サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場のワレリー・ゲルギエフ総裁と親しいんですよ。来日の忙しい間を調整して、私の「孌重荷」を観にみえて、楽屋に私を訪ねて「能はわずかな動きで心の深淵を表現する」と言ってのけた。彼は英語で私のことを「マイ・グッド・フレンド」と人に紹介するのですよ。

私はゲルギエフの指揮が大好きなんです。あの人が振る演奏は、同じ作品でも翌日聴くと違うんですよね。自身が心の内に感ずるところが観客に伝わるのです。悲しみの部分というのは、今日は抑えて、もっと深いところを少しえぐり出してみようとか、盛り上げるところは内面に重きをおこうとか。常に創造性があり、生き生きとしている。バッハの指揮をする人は同じ譜でも日によって違うべきだと思います。能も当然、そうでなくてはいけないわけですよ。一期一会の価値なのですから。ただ、未熟な者がそれをやっては駄目です。それを目指す、たゆまぬ研鑽と情熱の中で生まれるものだからです。

バイオリニストでも、チェリストでも管楽器奏者でも、技術を磨き上げてきた人が集まって演奏するから成り立つので、その人たちの特性を引っ張り出しながら、交響曲を作り出すというのは生半可なことではできないですね。能も、やはりシテがいて、笛・小鼓・大鼓、太鼓、ワキ方が謡の文句1つ違わないんだけど、謡の言葉の中身をいかに互いに共有するか、以心伝心がやはり一番大切なのです。よく声に出して伝えた、だけでは駄目なんですね。

長谷山 どうしても観客のほうから見ると、舞台の一番中心になるシテのほうに目が行きがちですが、その周りの人、すべてが舞台を支えていて、1つの芸術が生み出されるということですね。

坂井 ええ。だから、よく総合芸術と言いますが、囃子方もそうですし、ワキももちろん、ワキについているワキツレの中の1人が下手だったら、舞台はぶち壊しになって、緊迫感がなくなってしまう。

長谷山 その中から生み出されたものは世界のどの民族にも通じる普遍的な芸術となっていく。言葉が分からない観客も何か心に響くものが出てくる。これは人間に共通の喜びや悲しみを感じ取れるということなんでしょうね。

坂井 そうですね。ロシア公演の際、文語体と口語体の2つをロシア側に渡しまして、向こうの方が翻訳し、私の演じた過去の公演のDVDをお渡ししました。そうすると、ワキ方の「隅田川」の船頭の言葉が流儀によって違うんですね。それを指摘してきてどちらが正しいのか、と言うのです。文化交流というのは舞台が出来上がるまでのそういったプロセスが一番大切なんですね。そうやって、お互いの理解度が深まっていく。

これが文化交流で一番やらなければいけないことで、例えばロシアだったらチェーホフの「桜の園」などについてお話をしていくと、必ず接点があります。そうすると、日本の能はロシアのスタニスラフスキーが唱えたリアリズムとはちょっと違うんじゃないか、と思い込んでいたことが、しかし、表面的な演技ではなく、実は演ずる人の「心の内」にある普遍的なもの、大切な心の表現力だと気づくようになる。そのように、それぞれの国を理解していく上で文化力と多面的視点が不可欠なことではないかと思うのです。

1人の人間が自分の尊厳をもって、自信をもって身に付けてきたものをお話しする。そういう人たちが集まって交流が初めてできるんですね。社会もそういう方たち同士でそれなりのお話ができれば、福澤先生の言われた通り、1つの大きな理解を生むことができるのだと思います。

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