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【特集:新春対談】
新春対談:伝統と革新を備えた学塾を目指して

2019/01/10

慶應義塾の社中協力

長谷山 ご自身の塾生時代について、強くご記憶に残っていることがおありでしたら、お伺いしたいと思います。

坂井 私の場合、幼稚舎から慶應に行っているのですが、能の稽古は3歳頃からいたしておりますので、学業専従というわけにはいかないんですね。小さい時分から、学校の勉強もしなければならないし、家へ帰ると舞台の稽古もしなければならない。

戦争に負けて、日本が荒廃して、外地から学徒動員の方たちが帰っていらっしゃいましたよね。皆そのとき謡曲とかに関心を持っていらっしゃる。どこか人間は切羽詰まると、文化的な潤いみたいなものが欲しくなるのでしょう。故国に帰ってきて、自分の価値観を問い直されるような局面に遭い、謡や能という日本の古典を求めるようになった。それらは西洋の演劇と違って、最後は自分自身の心の内も救済されるんですね。

ですから、外国人が日本の演劇を下敷きにして作ると、どうも最後が違う。ドイツの「谷行(たにこう)」(ブレヒトが能の「谷行」を下敷きに書いた「イエスマン、ノーマン」)というのは、最後は死んでしまう。でも、日本のものはやはりどこかに魂があり、その中で救済される。西洋と日本との文化の違いなのですね。戦争で極限を体験された方たちは、そのことにお気づきになったのだと思います。

慶應義塾の創立90年のときは、陛下(昭和天皇)がここの丘の上にいらしたんですね。慶應というのはよその大学と違って、そのような周年行事などで何かキュッと集まるという、人間の絆が深いですね。やはり慶應義塾独特の強い連帯感があるのではないかと思いました。

創立90年のときの父の思い、学生の先輩への思い、それから150年のときに、三田で私が舞わせていただいたこと……、慶應義塾という形は不変ではあるけれど、様々に模様替えをする。1つの神経系統のようなものなのだと思います。これが福澤諭吉先生がお考えになっていた独立自尊なのではないか。そんな中で切磋琢磨する人たちが集まれば、人と人を紡ぐことができます。そういう意味で、僕も塾を出てよかったなと思いました。

長谷山 慶應義塾という名前に「義塾」が含まれているのは、理念を共有する民間の有志が力を合わせて学校を作り上げていこうということでした。またその形態を会社と呼び、そこから塾生、塾員、また教職員、全ての関係者が集まって慶應義塾社中を作った。そこから社中協力の精神で慶應義塾を守り立てていこうという機運が出てきます。おっしゃるように、卒業生、関係者の絆がとても強いのが慶應義塾の特徴だと思います。

三田会を見ても、おそらく日本の大学の中でこれほど同窓会組織が盛んな大学はありませんし、全国津々浦々、また海外にも三田会があって懇親を深めながら地域に貢献し、母校を支援していくという伝統があります。現在、国内に800、海外に70の三田会があります。創立者の福澤諭吉は「人間交際(じんかんこうさい)」を意図的に大事にし、自身も社交には力を入れました。日本発の本格的な社交クラブである交詢社の創立者にもなっています。

『豊前豊後道普請の説』という文章の中で、「世の中に最も大切なるものは人と人との交り付合なり。是即ち一の学問なり」という言葉を残しています。地方で卒業生の集まりがあって声をかけられると、気軽によしよしと言って出かけて行く。そうすると、各地で卒業生が福澤先生を囲んで盛り上がるという、創立以来の伝統が今の卒業生の絆の強さ、社中協力の精神というものに続いているのだろうと思います。

坂井さんがお父上と2代にわたって、時を超えて義塾で「土蜘蛛」の上演をされ、また学生を支援してくださったことも、慶應義塾におけるそうした人と人とのつながりという伝統の反映ではないかと感じました。

坂井 私もまったく同感です。

日本文化にある「救済」

長谷山 もう1つ、先ほどおっしゃった能と西洋の演劇との比較は大変おもしろいと思いました。日本の演劇も文学もそうですが、人間を見るときに、絶対的な善も悪もないし、善も悪も転化するもので、1人の人間の中に善もあるし、悪もあるという認識を前提にして、人間というものを多面的に見ていますね。そこがやはり最終的には「救済される」という発想につながっていくのかなという気がしました。

坂井 西洋の場合、悲劇は悲劇で終わりますね。「ハムレット」もそうです。あの主人公は不幸な死を遂げる。でも、能の場合は不幸な死であっても、どこか最終的には救済的なものが内在していて、ご覧になった方もそれを感じられるのだと思います。それはある種、禅の教えとか、神道の影響とか、日本人の宗教観というのは多岐にわたってその影響を受けている。それが、日常生活の中にずっと根付いているのだと思うのです。

ハロウィンはすっかり日本に根付きましたね。私は1988年にワシントンD.C.に行き、「道成寺」を舞った後、はじめてハロウィンの仮装を見ましたが、当時、日本ではほとんど知られていなかったんです。それがこんなに日本に定着し、街の真ん中で仮装する人がたくさん現れるとは思いませんでした(笑)。ですから、日本人には意外と貪欲性みたいなものがあるんじゃないでしょうか。

長谷山 ハロウィンの騒ぎを見て思うのは、西洋から入ってきたものを、その本質とは別に日本風にアレンジして、1つのお祭りにまでしてしまうのが得意だということです。バレンタインデーも、本来のヨーロッパにおける意味とはまったく違う形で、国民的行事と言っていいものになってしまっている。

万葉の頃で言うと、『常陸国風土記』などに歌垣の風習が紹介されていますが、春のこれから耕作が始まる頃、あるいは秋の収穫の頃に、常陸ですと筑波山に男女がお弁当を持って行って、歌のかけ合いをして求愛をする大変華やかで楽しい行事です。

日本人は生まじめで、人前であまり感情を表出しないと言われていますが、歴史的に見ていけば、切り替えが上手で、一生懸命農作業をする期間がある一方、お祭りでは爆発的に感情を表して楽しむというところがあって、今、ハロウィンなどに、そういう気質が噴出しているのかなという気はしますね。

坂井 お祭りというのは、信仰的なものの1つの根源みたいなところがあって、生活が今みたいに恵まれていないときは、凶作もあるだろうし、やはり神にお願いする。そういうところから芸能というものも生まれてくるのだと思います。日本人の多岐にわたる文化を吸収する民族性というのは大変貴重なものではないかなと思いますね。

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