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【特集:戦争を語り継ぐ】
座談会:戦後80年を経て何を、どう伝えていくか

2025/08/05

対話をつなげるということ

清水 自分と違う考え方をする人たちの視点に立って理解しようと試みることは、それに賛成することとは別です。「その人たちにはそう見えている」ことに気づくことは、フィールドワークやインタビュー調査の基本です。研究者が頭ごなしに断定してはいけないというのも、似たようなロジックだと思います。理解することと賛成することがくっついてしまうと、反対意見に耳を傾ける余地がなくなり、より分断が深まるところはあるとは思います。

安藤 新聞への意見などでも、そういう偏りのようなことを強く感じる瞬間が、たくさんあるのではないですか。

奥村 通信社には新聞への意見が届きづらいのですが、反対意見であっても、関心が寄せられることに意味があるし、自分自身が学び直してみるきっかけになるので、批判を機にもっと深い知識を得られればいいな、というところはあります。

とは言っても、明らかな無理解による非難もあるので、そういう時は次から文章に知識とか背景を補います。取材に応じてくださった人に不本意に矛先が向くようなことは避けたいです。

安藤 学術の側が「この成果こそ正しい」みたいな姿勢をとることは、結局そこで対話を切っていることになります。実はヘイトの方々がやっていることも同じで、自分たちから対話を切っている。だからこそ学術の側は、どんなに学術とは異なる意見であっても、意味がないかのように切り捨てるのではなく、対話につなげていかなければならないと思っています。実は学術にとって、それが一番苦手なところかも知れないのですが。

「語ることの目的」とは

奥村 最後に皆さんに伺いたいことがあるのですが。「語ることの目的」は何だろうなと思って。思い描くことや目指すところを聞いてみたいと思うのですが、いかがでしょうか。

大川 なかなか語りづらい声を当事者ではなく、まわりの人が少しずつでも聴かせてほしいと語りの場を開いていく工夫を凝らすことは、戦争をしないで生きていく術を磨くことと私はつながっているように思います。

少しでも、今生きている世界がよい方向へ向かうための努力を手放したくない。そう願ったところで、ひとりでは簡単に絶望しがちなので、自分以外の誰かと、語りを聞き合う関係を育むことができたら、それはごく小さな半径かもしれないけれど、互いを支え合うセーフティーネットになります。それが語ることの目的ではありませんが、語りがもたらす光なのでは。

清水 目的を固定してしまうことの危険性みたいなこともあると思います。目的が決まりプログラム化されると予定調和になってくるのですよね。戦後80年という年月の中で積み重ねられてきた予定調和が、知らず知らずのうちに継承実践に組み込まれている。例えば、何を語っても「平和は大切だとわかりました」という、正しいけれども抽象的で大きな物語に、尖った個別性のリアリティを溶かし込んでしまう。

しかし、戦争の語りというのは、何を語っているのか理解できない部分が多分にあります。だって、私たちは戦争を経験していないし、経験したところで、死んだ人が体験したことは多分わからない。

それは予定調和とは逆向きで、ポジティブな意味で、「いや、本当にわからなかった」という率直な反応もあってよいはずです。それは歴史家・保苅実の言葉を借りれば、「ギャップの前でたたずむ」ことを促す。だからギャップを埋めることを目的にすること自体、もしかすると罠かもしれないなと。

先日、辻堂で生まれ育った90歳のおばあさんにお話をうかがいました。戦争の話というより、辻堂の暮らしの思い出話を伺っていたのですが、最後に軍用地の話題が出て、「2つ年上の兄が演習場に落ちていた銃弾を拾って遊んでいたら、不発弾が暴発して、左手がなくなってしまった」という話をしてくださったんです。

そのエピソードは私と学生を確実に揺さぶった。不発弾のせいで義手生活を送ったお兄さんはすでに亡くなっているので語れないけれど、妹のおばあさんが90歳になって、60、70年も後に生まれた私たちにふと語っておこうと思った。語る動機も、出来事の詳細も、まだわからないことだらけ。でも、何か重たい衝撃は残っている。戦争の生の語りとはそういうものですよね。

平山 私は、戦争について語ることは、良い言い方かどうかわかりませんが、戦後80年間、戦争を仕掛けなかった国の「ブランディング」だと思っています。戦後に「 」を付さなくても意味が通じることの価値を大切にしてほしいなと。

一方、歴史研究者としては、新しい史料を発掘して、新事実の発見を重ねて、論脈を豊富化するために語りたいということになると思います。この2つですかね、目的と言われると。

奥村 皆様、有り難うございます。

安藤 私は、我々はアジア・太平洋戦争という巨大で複雑な事象を、本当に語り得るんだろうか、ということを考えるようになりました。

平山 聴き手に正しく伝わるように、語り尽くせるのかということですか。

安藤 そうですね。そこから逆に、これだけ時間をかけてもわからないようなことを人間が引き起こしてしまったということ自体に目を向ける必要があると考えるようになりました。

わからないことだらけで、立場によっていかようにでも語り得るアジア・太平洋戦争は、果たして歴史として語られるようになるのか、歴史という枠組みに収まっていくのだろうかということも考えないといけないのかも知れません。

そういう歴史のわからなさ、どうしても語り尽くせないところが、ある意味、戦争を我々が語り継いでいく意味なのかもしれないなと、皆さんのお話を聞きながら思いました。

本日は長い間、有り難うございました。

(2025年6月25日、三田キャンパス内にて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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