【特集:戦争を語り継ぐ】
座談会:戦後80年を経て何を、どう伝えていくか
2025/08/05
失われていく戦争遺跡
安藤 それぞれの方々がやってこられたことをもう少し詳しくお伺いしたいと思います。奥村さん、昨年の戦争遺跡の残存調査について、もう少し具体的にお話ししていただけますか。
奥村 1998年に文化庁が文化財化を念頭に実施した近代遺跡調査で、「軍事に関する遺跡」として市町村から報告があった642の遺跡がどんな状態で残っているかを、216自治体にアンケートしました。すると、約3割が消失するなどして、原形をとどめていませんでした。
完全になくなってしまっている遺跡もあれば、門柱1本しか残っていないものもあります。放置されている間に25年以上を経て消失が相次いでいることは、衝撃的な結果だと受け止めています。
安藤 体験者だけではなくて、個人の記憶や、考古学的な調査の記録や戦争をめぐる語りが結びつき、また対話が誘発される場として、戦争遺跡はとても重要な場所になると思います。
一方で戦争遺跡の保存・活用は進んでいない。ここには、なかなか文化財指定ができないとか、いろいろな問題があるのですが、そうこうしているうちに3割ぐらいがなくなってしまったという衝撃的な事実を、奥村さんの調査で知りました。
体験者がいなくなるというだけでなく、戦争の語りと結びつく物的痕跡も、放っておくとなくなってしまうという事実もあるのです。
清水 茨城県阿見(あみ)町の歴史編纂に携わっていて、ちょうど町内の戦争遺跡を調査しています。かつて報告書に書いてあったところを見て回ると、やはり風化が激しかったり、あるはずのものがなくなっていることもありますね。
ただ一方で、新たに見つかってくるものも少なくないのではないかと思います。ちょうど今日、慶應義塾史展示館で『きけ わだつみのこえ』の遺書で知られる学徒兵の上原良司さん一家の企画展(「ある一家の近代と戦争」)を見て、よくぞこれだけの資料が自宅に残されていたなと驚きました。時とともに失われていくだけではない。隠れていたものを探し出す営みをあきらめてはいけないと感じています。
安藤 そうですね。新しいというか、これまで見落としていたもの、見えていなかったもの、気づかなかったものにも目を向けていく必要があることは間違いないですね。
平山 お話を伺っていて思うのは、その残った遺跡642の前に、残らなかったものがあって、それを語るほうに引き付けると、「語られたこと」と「語られていないこと」がある。清水さんがお話ししたことで言えば、「新しく発見されたもの」もあれば、「まだ発見されていないもの」もあるということになると思います。
私が上原良司さんの遺書の直筆を初めて拝見したのは1994年頃で、「太平洋戦争と慶應義塾」での展示の際のことでした。『きけ わだつみのこえ』で大変有名な方ですが、私は直筆に圧倒されて、そこで止まっていて、「上原家」というものが全く見えていませんでした。
それを超えて、いろいろなものをつなげて「日常」まで見ていくという大きな新しい流れに、今の都倉先生の研究などもあるのだろうと思います。それまで見えていなかったものが見えることで、「日常」から戦争を語り、考えることで、いろいろな人が「他人事」ではなく「自分事」として考えるようになるという意味で、大切な突破口というか切り口と思っています。
一方で私は満州のことをやっているので、当然、その研究は中国とその周りの国ともつながってきます。いわゆるグローバルヒストリーや世界史をナショナリズムを相対化する形で考えていくことも必要になるのかなと思います。
安藤 個人から、あるいは家族から始まり広がっていく歴史は歴史学的に言えばミクロヒストリーとかミクロストリアというような枠組みかもしれませんが、それとはまた別のグローバルな視点からの歴史もあります。それらは相反するものではなくて、どうつなげていくかという模索がとても大事なのだと思います。
戦争が終わっていない島で
安藤 大川さんは、まさにそういうグローバルなところでも活動されていると思うのですが。
大川 私がマーシャル諸島に魅せられ、今なお通い続けている理由のひとつは、マーシャルで出会う人びとの歴史をなぞることで、日本との知られざるつながりに触れることができるからです。かつて大日本帝国のマーシャル群島と呼んだ時代に、海をわたり個人的な関係を深く育んだ人もいましたが、戦後、日本ではマーシャルがすっかり見えなくなってしまいました。「戦後80年」という時間は、日本が戦争の記憶を忘れられるように、マーシャルを忘却した時代です。
しかし今なおマーシャルを訪れると「戦争は終わっていない」ことを感じることの連続です。民家の横で置き去りになったままの旧日本軍の戦跡、人の名前、日本語由来の言語や歌などに、日本と深い関わりがあった記憶が刻まれ、生活の中で息づいています。マーシャルの人たちは、私たちが忘れてしまったことをいろいろなかたちで覚えています。わずかでもそうした記憶の隔たりを語り継ぐことで、ギャップを埋めることができたらと思っています。
先日、クェゼリン環礁という戦時中、激戦地となった島(現在は米軍のミサイル実験場)へ行きました。環礁内の小さな離島で「ここにも日本のものがあるよ」と言われて案内してもらうと、ジャングルと化した茂みの中に、どろっとした液体が地表の一部を覆っていました。
「これはオイルだ」と言われて、鼻を近づけて匂いを嗅いでみると、強烈なガソリン臭がしました。その一帯を囲むように大きなドラム缶が朽ち果てた状態であり、地面には、100年前に日本が持ち込んだガソリンが松脂のように光っていました。
島の地権者に話を聞くと、かつてその島は補給船などの中継地点で、ガソリンステーションとして機能していたのではということでした。その話を聞いて初めて、この島に無数の軍艦が補給で立ち寄った姿を想像できたのですが、その島に行かなかったら、この小さな島が戦時中、重要な拠点であったことは知りませんでした。まだまだ知らないことだらけで、マーシャルに行くたび、出会う人に教えてもらっています。
安藤さんがおっしゃった、語りの多様性と重なる話だと思うのですが、マーシャルに通い続ける理由の一つは、「全然知らないから」です。
安藤 やはりその場所に行かないとわからないことは、たくさんありますよね。出会いは戦争を語る実践においては非常に大きい。私は今、学術よりも、パブリックに対する発信を中心にやっているのですが、その時、「学術だから何でも知っている」と思われると困るんですね。
「皆さんが知っていることのほうが多いので、一緒にやりましょう」と言います。アジア・太平洋戦争はあまりにも巨大な事象なので、誰もその全体像を語れる人なんかいない。どんな優秀な研究者だって部分しか語れないし、偏った視点からしか語れないのだから、いろいろな人と出会い、そこで生み出されていく語りをつないでいくことがとても大事になると思います。
清水 『マーシャル、父の戦場』という大川さんの本は、マーシャルで餓死した日本兵の日記を、多様な専門分野の研究者の力を借りて解読して、研究者以外も遺族や作家など実に様々な方が関わって編まれています。協働が大変うまく実現した例でしょう。なぜ大川さんはあれができたのだろうと、今もって私は奇跡的なことだと思っているのですが。
安藤 僕もそう思っています。嫉妬を感じるくらいの素晴らしいお仕事です。
大川 それはひとえに、遠くまで届く本にしようと、当時勤めていた出版社を退職し、独立してみずき書林という出版社を立ち上げた編集者・岡田林太郎さんとの出会いがあったからです。いまだ語られることの少ないマーシャルでの戦争を、想像力を中心に据えることで捉え直し、近くに感じられるようにと、力を尽くしてくださいました。
安藤 『マーシャル、父の戦場』の佐藤冨五郎さんの日記に私も衝撃を受けました。これまで連合艦隊司令部地下壕で語られてきた歴史が、マーシャル諸島に残された日本兵たちが餓死していったこととつながることはほとんどありませんでした。
だけど時間的にはパラレルで、連合艦隊司令部が地下壕にこもらなければならないほど弱体化してしまったことがマーシャルの悲劇につながっています。このことを、もっと連合艦隊司令部で語る歴史に結びつけていかなければいけないと強く思いました。このように「見えていない」ところは必ずあるので、それに気づきつないでいくことが、とても大事ですね。
佐藤冨五郎さんの部隊の司令官は、戦後、50代で慶應の医学部に入って医者になった吉見信一さんですね。
大川 はい、吉見信一さんは、佐藤冨五郎さんが所属していた海軍第64警備隊の最後の司令官です。ウオッゼ島に送り込まれた約3500名の守備隊員のうち、2700名以上が亡くなり、その多くが飢えでした。
敗戦時、吉見さんは51歳。戦後間もない昭和21年から受験勉強に励み見事、慶應の医学部に合格。91歳までの33年間、小児科医として「第二の人生」を歩まれました。そうした戦後の生き方も、戦争を語り継ぐ話としてつないでいきたいです。
2025年8月号
【特集:戦争を語り継ぐ】
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