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【特集:慶應義塾の国際交流】
マリー・ラール/リシア・プロセルピオ/カミーユ・カンディコ・ハウソン:日本の大学における国際化とランキング・ゲーム

2024/10/07

  • マリー・ラール

    ユニバーシティカレッジ・ロンドン(UCL)教授、慶應義塾大学法学部特別招聘教授

  • リシア・プロセルピオ

    ボローニャ大学歴史・文化学部特任教授
  • カミーユ・カンディコ・ハウソン

    インペリアル・カレッジ・ロンドン高等教育研究・奨学金センター教授

はじめに

国際化──一般的には世界的な大学ランキングで測られる──は、今や多くの教育機関で共通の取り組みとなっている。ランキングに関する研究は、その分析を提供するだけでなく、何らかの形で大学の能力に関する判断をもたらす傾向がある。一方でランキング研究は、グローバリゼーション研究や、(植民地主義や帝国主義の文化的、政治的、経済的遺産を批判的に学術的に研究する)ポストコロニアル理論に基づき、ランキングに特徴的な無数の問題や限界を強調している。例えば、その方法論における透明性の欠如、STEM(Science, Technology, Engineering, and Mathematics)科目や英語への偏り、グローバル・サウスの学術組織を社会的に均質化する影響などである。共通する基本的な批判は、ランキングは容易に測定可能なもの(資源や研究成果など)に集中する傾向があり、教育や学習の質、社会への幅広い貢献など、高等教育の使命の他の重要な側面を見落としているということである。他方、学者たちは、ランキングをより正確で公正なものとし、最終的に妥当なものとするために改善が必要であるとしても、目的(すなわち、教育の質に関して、アクセスしやすく、管理しやすくパッケージ化された、比較的シンプルな情報に対する需要の高まり、教育機関に対するアカウンタビリティのシステム)にかなう合理的かつ正当なツールであるとして、ランキングを評価し続けている。

本稿では、世界大学ランキングの議論が日本の高等教育機関とその研究者にどのような影響を与えるかという観点から議論する。また、慶應義塾大学で私たちが実施した2つのワークショップの成果を振り返り、国際化とランキングによって投げかけられた疑問について大学の経営層に問いかけ、日本の教育機関が、コントロールすることはできないが、避けることもできないより広範なプロセスにおいて主導権を取り戻すための方法を提案する。

ランキング──誰もがやるゲーム

大学は常に協調的である一方、競争的でもあった。何世紀もの間、競争はそれを裏付ける定量的なデータなしに、暗黙の評判や地位によって評価されてきた。21世紀に入ると、「高等教育のプログラム、活動、機関、システムのパフォーマンスを数値で評価する」(Siwinski et. al, 2021)商業的なランキングシステムが開発され始めた。高等教育のグローバルな環境がますます複雑化している現在、すべての高等教育関係者は、この複雑さを理解するために、商業的なランキングが提供する簡素化された尺度に魅力を感じている。

ランキングが広く普及し、アクセスしやすくなったこと、またランキングに顕著な宣伝効果が与えられたことは、学生と彼らの選択に大きな影響を与えている。教育機関の評判、ランキングと学生(国内外を問わず)の出願行動には強い相関関係があることが、研究により繰り返し示されている。ランキングは当初、こうした外部の利害関係者(入学を希望する学生やその家族)を対象としていたが、ランキングへの関心やその利用は、とりわけ世界大学ランキングが定期的に発表されるようになったことで、大学自体(内部監査やガバナンス・経営のツールとして)や政府へと徐々に広がっている。同様に、ランキングは大学のグローバル・パートナーシップや国際化戦略を方向付ける主要なツールにもなっている。ランキング上位の大学は、主にランキング上位の他機関と連携しており、ランキング下位の大学は、パートナーを惹きつけるために必要な資本がないことに気づく。このような世界的な地位をめぐる競争の中で、政策立案者や大学ガバナンスの関係者は、意思決定や資源配分の枠組みを作り、正当化するために、しばしばランキングのデータを利用している。

東北大学の米澤彰純教授の研究によれば、東アジアの高等教育は、商業ランキングが台頭する以前から、大学ランキングに非常に敏感であったようだ。1970年代に日本と米国で行われたランキングに関する議論を比較して、ウルリッヒ・タイヒラーは、日本におけるランキングの社会的関連性は米国よりもはるかに高いと結論づけた(Shin,Toutkoushian, and Teichler, 2011)。これは、「皿洗いから億万長者へ」というキャリアアップの夢が、平凡な教育を受けた後にも可能であったアメリカに比べ、日本では、どの大学に通ったかによって、職業上の成功がより強く左右されると考えられていたことに関係しているようだ。

さらに最近では、1990年代以降、東アジアの国家指導者の多くが、知識経済構築という世界的潮流に沿った国の社会経済的発展を示すものとしてランキングに期待していることが、調査によって浮き彫りになっている。このような背景から、各国政府はグローバル化戦略の一環として国際ランキングを意図的に利用し、自国のトップレベルの大学に多額の投資を行い、質の高い研究を生み出す能力を急速に向上させようとしてきた。ランキングは、政府が大学のパフォーマンスを測定・監視し、高等教育セクターを グローバル・スタンダードに・・・・・・・・・・・・・ 導くための政策手段となっている。その結果、世界トップクラスの地位を・・・・・・・・・・・・ 獲得するために、西洋の規範や基準を移植しようとする熱意が生まれた。このような熱意は、ポストコロニアル的な視点に基づくものであり、それによれば、高等教育の発展の方向性は常に東西の二項対立によって形成され、高等教育の国際化はしばしば西洋化と解釈されてきた。

マヒドン大学のフィリップ・ハリンガー教授は世界大学ランキングを虎にたとえ、「『虎』は、東アジアのほとんどの大学を、彼らの社会やそこで働き学ぶ人々の願望を反映しないような目標へと向かわせている。しかし、『虎』の背中にしがみつくのと同じくらい、『虎』から降りるのも危険だと感じることが多い」と論じている(Hallinger,2014)。ランキングから逃げることはできないし、大学はランキングの結果をほとんどコントロールできない。実際、ランキングはゼロサムゲームとしての本質を持っている。そのため、ある大学がある年に大きく順位を落とすのは、成績不振が原因ではなく(相対的には前年より良い成績を収めている可能性さえある)、単に競合する他大学が指標のアウトプットを増やしたか、システムがスコア算出方法を変更したためである。

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