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【特集:慶應義塾の国際交流】
萩原 隆次郎:一貫教育校の国際交流
歴史の上に展開している交流プログラム

2024/10/07

  • 萩原 隆次郎(はぎわら りゅうじろう)

    慶應義塾幼稚舎教諭

慶應義塾幼稚舎には、モホーク・デイキャンプ、ドラゴンスクール・エクスチェンジ、英国サマースクール、プナホウスクール・エクスチェンジの4つのスクール、交流プログラムがあり、その中で慶應義塾が古くから関係を築いてきた学校が、ハワイのプナホウスクールである。

1841年創立のプナホウスクールは、今年で184年目を迎える。幼稚園年長から高校3年まで、毎日同じ1つの敷地に通う私立学校としては全米最大の学校で、その生徒数は約3800人になる。

慶應義塾と交流を始めたのは、福澤先生の令孫であり戦時中は幼稚舎の主任(現在の舎長)も務められた清岡暎一先生で、1969年に第1回の交流を始めている。パンパシフィックプログラム(通称PPP)と呼ばれたこのプログラムは、高校段階の交流として、塾高・女子高・志木高とプナホウの高校生が互いの家に1カ月半ホームステイするエクスチェンジプログラムであった。パートナー同士の交流は、うまく発展すると生涯の親友となる。それは私の妻が女子高時代にPPPに参加し、今でも毎日のようにパートナーと連絡を取り合って、毎年のようにハワイと日本の互いの家を行き来している姿を見ていると痛感する。

プナホウスクールとの交流、第1回のハワイ到着時に撮られた写真(1969 年)。中央手前に清岡先生(前列右から7番目)。1人おいて左側に奥様。

PPPは50周年の節目を迎える直前に、両校における制度変更の兼ね合いで意見の相違が生じ、残念ながら途絶えることとなったが、丁度そのタイミングで幼稚舎が小学校段階のエクスチェンジとして姿を変えながら関係を継続することになった。高校段階での交流断絶が決定していたその裏で、現地でプナホウ側の国際交流責任者とうまく関係継続をアレンジしてくれたのは妻のパートナーであったジョアン・ミヤモト氏であった。30年前のPPPで出会った絆が、途絶えそうになった両校のバトンをギリギリで繋いだことになる。このことは、前学園長のジェームズ・スコット先生からも改めて感謝の意を直接述べられたことがあり、清岡先生の信念と熱意が、時を超えていまだに生き続けていると肌で感じた瞬間であった。

幼稚舎の交流は3年の準備期間を経て2016年からスタートした。PPPでは英語力の強化・議論を大前提としながら、国際的な社会意識の育成が期待されていたが、幼稚舎は年齢が10歳〜11歳と圧倒的に低いため、英語力の強化は二の次。その一方で、言語を超えた感覚的な心のコミュニケーションが、ほんの数日の間に凄まじい勢いで醸成されていく。子供だけが持つ特殊能力とでも言うのか、国を超え、人種を超え、言語を超えて短時間で親友になるその姿は、大人が見習うべき人間交際術と言えよう。

歴史の上という観点では、別の意味でモホーク・デイキャンプも挙げておきたい。モホーク・デイキャンプは、慶應義塾ニューヨーク学院が開設されなかったら、創設されていないだろう。このプログラムはニューヨーク学院の学年が切り替わる夏季、誰もいなくなった寮に幼稚舎生が寝泊まりして生活する。平日は、学院を出てスクールバスで15分ほどの場所にあるモホーク・デイキャンプという場所に毎日通って参加する。ここでは現地の子供たちが大勢通ってくるので、スポーツや遊びを通して昼間だけ交流し、夕方学院に戻ってくる。

このプログラムはニューヨーク学院の至近にたまたま現地のデイキャンプがあり、空いている学院の寮を幼稚舎が使うことができたという、地理的条件と施設利用条件がうまく重なり合って創設されたプログラムである。慶應義塾がニューヨーク学院を開設したことで芽吹き、30年かけて大きく発展したと言える。

「慶應義塾の歴史の上に」という観点で今回はプナホウとモホークを紹介したが、幼稚舎では冒頭に述べた4つのプログラムに加えて、ニュージーランドをはじめ、新たなプログラム開発が複数検討されており、今後の幼稚舎国際交流のさらなる発展が楽しみである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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