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【特集:新春対談】
新春対談:グローバル・シチズンを育てる学塾へ

2023/01/10

「日本をよく知るアメリカ人」という立場

フクシマ 通商代表部にいる時、仕事としての相手は主に日本の官僚でしたが、私が慶應や東大、ハーバードで知り合った官僚などとの付き合いもあり、その意味ではほかのアメリカの政府担当者と比べて日本のことを理解していると感じました。

伊藤 日本通のアメリカ人ということですね。

フクシマ 1つ例を申し上げます。日米の政府間の協議を1週間行うためにアメリカから代表団が来ます。1日目の夕方、外務省の会議室での交渉が終わった時、日本側の代表団のリーダーから「これから日本の記者団にどのように説明しましょうか?」と言われます。われわれとしてはまだ交渉が続くので、今の段階で日本のマスコミに言う用意は何もないと言いますが、日本側はマスコミが外で待っているから何か言わなければ駄目だと言う。そこで再び交渉して、マスコミにどのように伝えるかを合意します。

でも、次の朝、朝刊を見ると全く合意したことではないことが書いてある。日本側に有利な形になっているのです。それを見て同僚のアメリカ政府の人たちは、「裏切られた。日本の役人はまた嘘を言った。約束を守っていない」と、非常に批判的に受け取ります。

しかし、私は日米ではジャーナリストの取材方法が異なることを知っていたので、必ずしも「役人が裏切った」とは解釈しませんでした。例えば、日本では、交渉終了後、日本政府が公式な会見をする場合もありますが、それ以外に、懇談、夜回り等の多様な取材手段があり、そういう機会に多くの情報を集めて記事を書きます。また、アメリカでは、取材した人が署名入りで記事を書くのが通例ですが、日本の場合、書いた人が必ずしも取材をした人ではないし、見出しを書く人も取材した人ではないこともあり、記事が出来上がるまでにいろいろな段階を経ています。だから必ずしも役人が嘘をついたわけではないと考えていました。

伊藤 それは結果的には日本にとって非常に有り難いことですね。

フクシマ 本来はそうなのですが、日本の役人の中には日本のことをよく知っている人間が交渉相手にいるのは都合が悪いと考える人もいました。だから私だけミーティングから外されたことが何回かありました。そういう役人の人たちは私がいなければ日本語を知っている人がいないので、日本語で話せばわからないと思っていたようです。

こんなこともありました。1958年、私がロサンゼルスの法律事務所で働いている時に通商代表部日本部長の仕事の声がかかり、それを引き受けた時、日本の大手新聞社2社のロサンゼルス支局の記者が是非インタビューをしたいというので、それぞれインタビューを受けましたが、最終的に出た記事は決してポジティブではなかった。「この人は日本のことを勉強して、慶應にも東大にも留学していて日本語もできる。日本にとっては非常に危険な人物、手ごわい相手だ」という扱いを受けました。

対照的なのは、その次の年、日本の早藤(はやふじ)昌浩さんというブラウン大学を卒業した人が当時の通産省に入り、通産省としては初めて日本の大学を卒業していない人がエリートの役人になったのですが、その報道はワシントンから歓迎されました。「アメリカの大学を卒業し、英語ができ、アメリカを理解する人が日本政府に入ったことは大歓迎」という論調でした。しかし、日本のことを知っている人間がアメリカ政府に入ることは日本政府から歓迎されず、警戒されたのです。

伊藤 なるほど、そんなことがあったのですね。その後、AT&T、アーサー・D・リトル、日本ケイデンス・デザイン・システムズなどテクノロジーに関わる会社の日本のトップを務めてこられました。結構会社を移られていますね。

フクシマ 私は大学1、2年ぐらいまでは理科系の科目を勉強しました。その後はずっと社会科学、法律、ビジネスが専門でしたが、先端技術には非常に関心を持っていました。

通商代表部では半導体やスーパーコンピュータ、通信関係の仕事をする機会がありました。ですから通商代表部を辞める時、AT&T、インテル、モトローラの3社からオファーがありました。インテルでは当時の伝説的社長アンディ・グローヴから直接オファーがありました。89年の終わりから90年の初めですが、当時はシリコン・バレーの半導体の専門家たちからは「日本の大手企業が競争力があるので、インテルなんかに行っても将来性はないよ」と言われたのです(笑)。

伊藤 それから5年後には世界を席巻しますね(笑)。

フクシマ そういう人たちが私に言ったことは、「国際ビジネスでは、資産も技術もある大企業のほうが有利だ。インテルのような小さな企業は危ない」ということでした。それもあって巨大企業でノーベル賞受賞者を7人も出したベル研を持っているAT&Tに入りました。

しかし、8年後にAT&T退社時には、インテルの株価は39倍に急上昇していた。ですからその時インテルに行っていたら、株だけで何百万ドルも儲けて、早くリタイアしたと思います(笑)。まさにあの経験から専門家の話は注意深く聴こうと思いました。

伊藤 そして、在日米国商工会議所会頭やその他数多くの日米の架け橋となるような取り組みを行われ、日本でもアメリカでも交流関係を広げられて、今ではサンフランシスコ、日本、ワシントンD.C.この3つを拠点として日々生活されているわけですね。

日系アメリカ人というアイデンティティ

伊藤 今日、特に私が伺いたいと思っていたことが、Japanese-Americanというアイデンティティについてです。フクシマさんは日系三世アメリカ人としてアメリカで成長された。大きな意味でアジア系アメリカンのコミュニティにいたと思います。

フクシマさんが小さかった頃はアジア系アメリカ人の中では日系アメリカ人が一番人口が多く、大きなコミュニティがあったと思います。ところが1965年頃から台湾、香港、中国、ベトナムを含む東南アジアからアメリカへの移民が増えて、今は日系アメリカ人コミュニティはアジア系アメリカ人の中でも6番目ぐらいの大きさだということですね。アジア系アメリカ人の中の日系アメリカ人というコミュニティの中で育った経験、そして日系人として慶應で学んだ時の経験、日系人としてアメリカや日本で働いた経験を踏まえ、日系三世というお立場でどのようにお考えになってきましたか。

フクシマ おっしゃる通り、1960年代は日系アメリカ人がアジア系アメリカ人の中で最も人口が多かったのですが、1965年の移民法の改正によって、日本以外のアジア各国からアメリカに移民する人がかなり増えました。主に中国と、それからベトナム戦争の結果、ベトナムからの移民、そして韓国からの移民が増えました。最近は特にインド系が増えています。今はアジア系の中では中国系アメリカ人が一番多くて、二番目はフィリピンだと思います。その後にインド、ベトナム、韓国、そして日系は六番目です。ですから日系アメリカ人は相対的に人口の割合はアジア系アメリカ人の中で少なくなっている。

もう1つ、30年ぐらい前は日系アメリカ人は政治参加をする人が多かったのです。一時はハワイ出身では上院議員にダニエル・イノウエ、スパーク・マツナガ、下院議員ではパッツイー・ミンクという議員がいました。アメリカ本土ではノーマン・ミネタ、それからボブ・マツイという下院議員。一時は5人の日系アメリカ人が議会の仕事をしていましたが、今は3人に減っています。それと比べて韓国系アメリカ人は4人、インド系アメリカ人も4人、下院議員がいます。ですから人口でも政治参加のことを考えても、相対的に日系アメリカ人は影響力が小さくなっている。

私がカリフォルニアで育った当時はアジア系アメリカ人という認識はあまりありませんでした。スタンフォード大学に通っていた60年代の終わりに学生運動があり、ベトナム戦争反対の運動、あるいは女性解放運動、黒人あるいはヒスパニックの学生の運動があった中で、60年代後半にアジア系アメリカ人という1つのカテゴリーができました。アジアから移民した人たちが国別にバラバラだと政治的に発言力がないので、アジア系アメリカ人を1つのグループとして考えて1つのカテゴリーを作ったのです。

伊藤 ロビー活動が進まないということですね。

フクシマ そうですね。そのような背景もあり、中国系アメリカ人、韓国系アメリカ人が政治参加するようになり、特に最近はインド系のアメリカ人が積極的に政治に参加し、ワシントンでも発言力が高まっています。そして私が見ている限り、日本以外のアジアの国からアメリカに移民する人たちと、その祖国との関係は皆、かなり密のように思います。特に台湾系アメリカ人と台湾の関係などがそうです。

それに比べて日系アメリカ人と日本の関係はかなり薄いです。私は同世代の日系三世と比べると日本との関係が密にあり、日本語もある程度できますが、でもこれは例外的です。

私が高校生の時に2年間通っていたガーディーナ・ハイスクールは、当時は卒業生の25%近くが日系アメリカ人でした。しかし、ガーディーナというのは戦前から日系アメリカ人のコミュニティがありましたが、その25%近くの日系アメリカ人の中で日本に来たことがある人はたぶん5%以下だったと思います。皆、アメリカで生まれ育ち、日本と関係がない日系アメリカ人がほとんどでした。

伊藤 私も1982年に父親の転勤で慶應高校を休学してカリフォルニアのロスアルトス・ハイスクールに行った時、ケビン・イケダという日系人に会いました。英語しか話さず、日本語は話す気もないと言う。そもそも日本人は自分たちを日本人の仲間と見ていない。だからなぜ日本語を話さないといけないのかと言うんですね。彼は日系三世か四世だったと思いますが、自分はアメリカ人としてアメリカで生きるのだと。たまたま名前は日本人っぽいけれどアメリカ人なんだと言ったのを聞いて、私はショックを受けました。

というのは、先ほどおっしゃったように韓国人は韓国系アメリカ人を仲間として考えるし、台湾の人もそう考える中で、日本の場合は出ていった人を、自分たちのコミュニティから離れていった人と考える傾向があるのだな、とその時初めて気づいたからです。

例えば、随分前のアルベールビルオリンピックのフィギュアスケートでも、伊藤みどりさんとクリスティー・ヤマグチさんがトップを争った時、日本人でクリスティー・ヤマグチさんを日本の仲間として応援した人はほとんどいなかったと思います。だから、日本人というのは本当は冷たいのだなとすごく思いました。つまり、島国の中で自分たちの世間にいる人たちだけが仲間であって、そうでない人は仲間ではないという意識が強いのではないかと思ったのです。自分たちの世間とそうでない世間との間にボーダーを引いていて、これは日本にとってすごく損だなと思ってきました。

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