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【特集:新春対談】
新春対談:グローバル・シチズンを育てる学塾へ

2023/01/10

電通でのインターンの経験

伊藤 スタンフォード大学卒業後はハーバードの大学院に進学されて、ハーバード・ビジネススクール、ロースクールも修了されたスーパーマンですが、1979年夏にはJapan Business Fellow Programで再度来日され、電通でインターンをされたのですね。

フクシマ 1977~95年まで、ニューヨークのジャパン・ソサエティと東京の国際文化会館がJapan Business Fellow Programというプログラムを運営していました。日本経済が70年代に急成長し、79年、私がハーバードの大学院生の時、指導教官のエズラ・F・ヴォーゲル教授がJapan as Number Oneという本を出版した頃です。

当時はハーバード・ビジネススクールでも国際ビジネスのクラスのケースの半分は日本の産業政策と日本的経営の2つが大きなテーマで、アメリカが日本から学ぶという雰囲気がありました。このプログラムは、アメリカのビジネススクールの学生を5人選んで、1年生と2年生の間の夏の2カ月間、日本企業に入れてインターンシップをさせ、日本のことを勉強しようというものでした。

79年の夏、私はハーバード・ビジネススクールの1年生が終わってからそのプログラムに応募しました。他のアメリカの大学の学生と5人で日本に来て、それぞれ日本企業に配置されました。私が選んだわけではなく、国際文化会館のほうで私を電通に入れることにして、2カ月、電通で研修生として過ごしました。

ちょうどその頃、『Fortune』に電通についてかなり大きい記事が出ました。その年、電通はジェイ・ウォルター・トンプソンを追い抜いて、売り上げレベルとしては世界で一番大きい広告代理店として注目を浴びていたのです。この記事を読み、これだけ大きいグローバル企業に研修生として行けるんだと期待しました。しかし、入ってみたら電通のビジネスの99%は国内で、決してグローバルな企業ではないと気がつきました。

この時に印象深かったのは、私が参加した電通のプロジェクトの中に、日本の人口動態について、これからG7の国の中で最も早く高齢化が進むという予測の下で、日本企業は65歳以上の年齢層に対してどういう製品、サービスを提供できるか、というものがあったことです。

伊藤 その頃からすでに予測されていたのですね。

フクシマ そうです。79年の時点で日本はこれだけ高齢社会になることを知っていたのですね。それに対する政策はほとんどなかったのですが、そのプロジェクトは大変勉強になりました。

日米貿易摩擦下での交渉

伊藤 その後、米国大統領府通商代表部でアメリカ側の担当者としてご活躍される。まさにバブル期の、半導体、自動車の交渉に、アメリカの一員として厳しく臨まれたのですね。日本の貿易黒字が大きくなりすぎて、アメリカでは日本製品が壊されたりする、といった状況だったわけですが、どのようなご経験でしたか。

フクシマ たくさん興味深い経験をしました。『日米経済摩擦の政治学』という本にも書きましたが、あの本も実は慶應と関係があります。

私は5年間の通商代表部での仕事を終えた後、AT&Tに入ったのですが、1990年の夏に日本に赴任した時、下村満子さんという慶應の卒業生から声がかかりました。『朝日ジャーナル』の編集長になったので、私の通商代表部での経験について週に1回連載記事を書いてくれないかという依頼でした。結局、週に1回の記事を『朝日ジャーナル』に三十数回出しました。その結果、これを一冊の本としてまとめましょうとなり、いくつか章を追加して、岡本行夫さんや猪口孝さんと座談会も行って、下村さんのお蔭で本になり、大平正芳記念賞を受賞しました。

日米は貿易摩擦でかなり緊張関係が高い時でした。おっしゃった通り半導体、スーパーコンピュータ、牛肉、柑橘類、電気通信など、日米の貿易委員会の会合を年に2回ほどしました。30ぐらいの項目が日米の案件として出て、解決しなければいけない問題が多く、非常に忙しい仕事でした。アメリカにいる時も朝から晩まで仕事をして、月に1回、日本に来ても、朝から夕方まで協議し、夜もアメリカ大使館関係者や企業関係者に会っていました。ホテルの部屋に戻ってからは電話でワシントンとやり取りし、毎日睡眠時間が4時間ぐらいでした。日本の交渉担当者の皆さんのようにaround-the-clock で協議をしました。

当時日系アメリカ人でアメリカ政府の高官として日本と接触した経験のある人は他にいませんでした。そういう意味ではいろいろ興味深い扱いを受けて勉強になりました。

伊藤 その時、日系人でもあられ、慶應でも学んで日本の友人がたくさんいらっしゃるというコネクションは役に立ちましたか。

フクシマ 慶應に留学したこと、そして82年~83年、東京大学にも1年間留学した経験がとても役立ちました。またハーバードでは8年ほど大学院生活をしましたが、日本から留学生がたくさん来ました。役人としてハーバードの大学院に留学し、その後政治家になった人が結構います。塩崎恭久さん、茂木敏充さん、林芳正さん、宮澤洋一さんなどです。今の熊本県知事の蒲島郁夫さんも当時ハーバードに留学していました。そのようにハーバードでも日本のいろいろな分野の方と知り合いになることができました。

ハーバードではエズラ・F・ヴォーゲル先生、エドウィン・O・ライシャワー先生、そして『孤独な群衆』を書いた有名な社会学者のデイヴィッド・リースマン先生の3人の著名な教授の助手をする機会があり、大変幸運でした。また、The Japan Institute というハーバードの日本研究所でジャパン・フォーラムという講演シリーズをやり、そのディレクターを75~80年までの5年間やっていました。

伊藤 大学院生としてジャパン・フォーラムのディレクターをやられたのですか。

フクシマ はい。例えば緒方貞子さんをニューヨークの国連本部からお招きしてスピーチをしていただいたり、当時ワシントンの日本大使館で働いていて、その後クリントン政権の時に駐米大使になられた栗山尚一さんなどにスピーカーとしてご講演いただきました。このようにハーバードの8年間は日本との関係をさらに強化する機会でした。

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