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【特集:新春対談】
新春対談:ポストコロナへ向けた大学のあり方

2021/01/08

慶應ファミリーという思い

長谷山 中谷さんは幼稚舎から慶應でいらっしゃる。慶應の一貫教育というのは、日本でも、またおそらく世界の中でも珍しい特色のある教育システムです。その中で育ち、そして国際機関のお仕事をされてきた中谷さんご自身が振り返ってみて、一貫教育に対する評価はいかがですか。

中谷 娘も慶應の一貫教育を受けました。私は、一貫教育に対して非常によい思いしかないのです。それぞれの時期にタイムリーなことを強制ではなくホワッと教えていただいたような気がします。

幼稚舎の時は、率直に言ってあまり勉強もせずに、ともかく走り回っていました。放課後になると、クラブ活動もやったけれど、それだけでは遊び足りなくて、校地の奥の原っぱで、缶蹴りをして、用務員さんに追い出され、目黒まで缶を蹴りながら帰ったり。やはり「先ず獣身を成し、後に人心を養う」というか、仕事をさせていただくための健康、身体づくりという意味で本当にいい体験をさせてもらったと思います。

幼稚舎時代、土曜日は三田に寄って、塾法学部の教員をしていた母と一緒に帰宅することがありました。子供の目には三田の山というのは、まさに東京湾が見える「山」でした。高橋誠一郎先生が和服で歩いているのをお見かけしました。それから幼稚舎には今でもやっている1000メートル水泳というのがありますが、小泉信三先生がそれを見ておられました。戦災で負傷され、何かでっかくて怖い先生だなと思いました。でも優しい感じはしたのです。そんな思い出があります。

普通部を経て、高校は志木に進学しました。その理由は、商学部の和田木松太郎先生が当時校長をされていて、母が海外留学に出していただく時期だったものですから、生活指導も含めて信頼できる先生のところに置きたいという希望があったようです。ここでも非常に充実した青春を謳歌できました。

長谷山 私も最初は法学部でしたので中谷瑾子先生に教わりました。私の思い出の中の中谷先生はとても品のいい優しい先生でした。試験前に今期やったことをポイントはどこだときっちり振り返り、その上で試験をされるのでよく理解できるのです。そういう丁寧な教え方をされていました。当時は多くの先生がいかにも大教授で板書もあまりなく、テキストを手元に置いて淡々と講義をされていましたが、中谷先生は、教授法といいますか、教育にも力を入れる方で、大変丁寧に教えていただいた記憶があります。

私の師匠に当たる法制史の利光三津夫とは仲良しで、利光先生が家の建て替え先を探している時に、「利光さん、うちにいらっしゃいよ」と哲学堂の近くのお宅の敷地にあった離れを紹介され、そこにわれわれは荷物を運んでいったことを覚えています。

そういえば、私の記憶では当時から法学部は女性の先生が多いなという印象でした。後から知ったのですが、新制大学になって慶應にも女子学生が入ってきた時、後に慶應の教員になる女子学生が固まって入っているのです。昭和21年に文学部に伊丹レイ子先生、法学部には22年に人見康子先生、23年に中谷先生と米津昭子先生が入った。その方たちが同時期に女性教員として学部を引っ張っていく。

これは実は偶然ではないと思うのです。福澤諭吉は、当時としては非常に開明的な考え方の持ち主で、男女平等の女性論を説きました。また、今でも慶應は大学の中で女性教員の数でいうと日本一なのです。ですから、女性が社会で活躍できるような教育を意識して、一貫してやってきたのではないかと思います。

中谷 母の話をしていただいたのですが、優しい先生だとお聞きしたのは初めてです。橋本龍太郎先生に会うと、いつも「お前のお袋にひどい目にあって落第しそうになった」と聞かされていました。ただ慶應の先生でいて非常に幸せな人生だっただろうと思うのは、ゼミの学生さんたちと生涯、良い関係が続いていたことです。慶應を退職した後も特に親しかったゼミの方が家に来られて本を一緒に読んだり。母はそれを非常に楽しみにしていました。

特にゼミの最初の時期の女性のメンバーとは親密で、よく来られた3名の方を、我々夫婦は敬愛を込めて「3ババさん」と言っていたのですが、家内は結婚した当初、「姑さんが4人いる大変な家にお嫁にきてしまった」と言っていました(笑)。非常にいい関係を一生の間持ち続けることができ、3ババさんに感謝するとともに、大学の先生というのは、素晴らしい職業だと深く感じました。

また、私は英語を使って仕事をする時に、バックボーンとしてよかったなと思うのは、刑法の宮澤浩一先生の奥様がとても英語がお得意だったものですから、土曜日になると宮澤邸に行って丸善の文法書を勉強したことです。本当にそういう意味で私も慶應のファミリーの中で育ってきました。

私は社会に出てから厚生省に入って慶應義塾とはほぼ関係のないような道を歩んできました。基本的に東大法学部の人が多い世界でしたが、節目、節目で塾の先輩に助けていただきました。役所では、塾医学部の卒業生、WHO事務局長補になった時は、ジュネーブにいる大使が藤崎一郎さん(後に米国大使)だったのです。次が北島信一さんで両大使とも塾員で、本当によくご指導いただきました。

長谷山 藤崎さんには、この数年、慶應の外部委員として認証評価に加わっていただいていました。教育にも非常に造詣が深く関心がある方ですね。北鎌倉女子学園で長く理事長もされている。

中谷 上智大学の顧問をされていた時にご挨拶に行った際、ご自分も写っておられる歴代の米国大統領の写真をお見せいただきました。「これはどこのマダム・タッソーで撮られたのですか」と聞こうと思った矢先に、機先を制するように「これは全員本物だよ」と言われて大笑いとなりました。

国際保健の道を歩むきっかけとなったハンセン病

長谷山 以前、中谷さんからハンセン病との闘いを記録したご本を頂戴しましたが、非常に印象深い話でした。ハンセン病に対する取り組みについても少し触れていただけますでしょうか。

中谷 私が国際保健の道に入るきっかけとなったのが、実はハンセン病だったのです。医学部を出て研修医になった時、夏休みにたまたま瀬戸内海にある長島愛生園でハンセン病のセミナーがあるというポスターを見て、このセミナーに行ったのです。当時の長島愛生園の所長は、高島重孝先生という慶應医学部の卒業生で公衆衛生の講義でお話を聞いていました。それ以上に、長島愛生園には神谷美恵子さんという精神科医でマルクス・アウレリウス帝の『自省録』の翻訳者の方がいらしたことが大きかったのです。医学部ではラテン語が必修で、マルクス・アウレリウスがテキストの一部に使われていました。あのような名訳がどのような環境で生み出されたのか興味があったのです。

当時の医学部では、ハンセン病は難治性の感染症だから、患者は国立療養所に隔離されると教わりました。しかし、セミナーで私たちが知ったのは、WHOの調整の下に外来でハンセン病が治療できるような複合剤の研究開発が進んでいるということでした。このような話を聞いて国際保健は非常に面白い刺激に満ちた分野だなと思い、気が付けば40年国内外を行ったり来たりして活動することになる最初の鮮烈な経験でした。

それから、母は法学者として「らい予防法」の非人道性を強く認識していました。一方、公衆衛生の人間というのは、公益と人権抑制とのバランスの中で、どちらかというと公益と言いますか一般性を考えるわけで、それが結果として人間の尊厳を犯す危険があり常に自省を怠ってはならない分野だと思います。今ではこのような成熟した物言いができますが、30年前は若気の至りで、母とはすれ違いが生じたこともあり、個人的にも思い出が深い分野です。

長谷山 そういえば、私も思い出したことがあります。中谷先生は刑法の大家ですが、実は「尊属殺重罰制度の史的素描」という法制史の分野にわたる優れた論文があるのです。

明治以降、親殺しの尊属殺は普通の殺人よりも刑が重くて刑法の規定では死刑と無期懲役しかなかった。ところが親殺しというのはやむに已まれぬ事情がある悲惨な例が多くて、特に女子の尊属殺は情状酌量の余地が大きい事件があります。昭和48年に、最高裁が、刑法第200条の尊属殺重罰規定は憲法の定める法の下における平等に反し、違憲だという画期的な判決を下しました。そのことを学生時代、憲法と刑法の授業で習いました。

後年、自分が授業で律令法の家制度や刑罰制度について話すようになってから、中谷先生の論文をじっくり読んだのですが、中国律令からはじまって日本律令、鎌倉幕府、徳川幕府の武家法に至るまでの前近代法の中に尊属殺の歴史を辿り、次に明治の新律綱領から改訂律例、旧刑法までの編纂過程を辿って、草案ごとの尊属殺規定の変化まで丹念に分析して、それだけではなく、さらにローマ法から始まる大陸法と英米法、現代の諸外国の法までを詳細に比較するという徹底ぶりです。それまで日本の尊属殺重罰規定は明治におけるフランス刑法など西洋法継受の結果だと言われていたのですが、中谷論文はそうした一面的なとらえ方を正し、律令法に淵源を持つ封建的な家制度の影響が強い、いわば和洋折衷の法だということを明らかにされたのです。

しかも付記に「律令に関する部分は畏友利光三津夫教授の示唆と援助による。友情に感謝する」と、恩師の名があるのに気が付いて、余計うれしくなったことを覚えています。

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